NIGHT SCRAPS

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骨の芯まで

 刺すほどの冷たさ。それがずうっと心から離れなかった。だけど僕を乗せたバスがトンネルを抜け、次々と車を追い越していくのに合わせて強引に引き剥がされてしまった。熱い。氷のようなそれがくっついていたところが、ひりひりと痛んでいる。そして今度はこの痛みがしつこく付き纏いはじめる。バスを降り、駅で鉄道に乗って移動し、そこから自分の家まで歩いたあともずっと。

 夕方になって家の近くを歩いてみた。君が知らない場所、小径、顔。ときどきやな臭いがどこかから流れてきて、鼻がつんとした。締めていたネクタイを緩むように、昼の空気がほどけて安堵と倦怠が辺りにあふれていた。ふわふわと浮ついた心地が不穏な夜へと繋がっている。君がいない久しぶりの夜。自分でなんでも用意して、自分のために消費して、自分ひとりで片付ける。まだ不慣れな生活。外から鈴虫の声がきこえて、そっと耳をすました。ベランダに出ると星の光をいくつか確認できた。

 どうせなら最後にケーキでも買っておけばよかった。安易に喜ばせる方法に頼っておけばよかった。でも相手が本当に望んでいるものを知って、その途方もない日々を思ってしまった。時間もかかるし労力も必要だ。はたして自分にどれくらいのことができるんだろう。寝返りをうって、ふと目を開いた。オレンジ色の照明がたそがれのように揺れていた。小川が頬を渡って海ににじむ。隠すように目をつむる。やっぱりケーキを買って三人で食べたらよかったかな。

 ずっと予感していた、刺すほどの冷たさ。側にいた日々が長くなるほど、そこから離れるのは難しくなる。実際に離れた今、燃えるような感覚を抱えている。この熱をどこへ連れて行こう。不細工な僕をどこへ泳がせよう。骨の芯まで孤独だし、一人でできることなんて高が知れている。いつか君に果物を届けよう。すぐに腐ってしまうかもしれないけど、ものすごく甘いものにしよう。この熱で種を温めながら、小川から掬った水をやろう。ときどき自分自身にケーキを贈りながら。

リンゴとアルコール

 二日酔いで目覚める。自分のことなど忘れて、馴れない体験にうつつを抜かしたせいだ。大して強いものを飲んだつもりはないけど。何かが吐き出されようと懸命に主張しながら、胸のあたりで引っかかってしまっている。それが余計に気持ち悪い。カーテンを開けると真っ当な光が差し込んできた。急いで閉める。昨夜から台所で眠っている食器を起こしに行く。

 本当は何もする気が起きません。カレンダーは春のままだし、案外それでもいいかと思っているし。このまま床でずっと眠っていても、しばらく誰に気づかれない自信がある。そしてこの部屋いっぱいに毒が満ちたって、そのときにはもう僕の責任は霧になっていて…、くだらない妄想を終わらせてスーパーまで歩いて向かう。

 リンゴを手に取りながら、ホルマリンに漬かった昔の記憶を掬い上げる。夏祭りの騒がしさから抜け出して、友人と神社の石階に腰を下ろした夜。ぬるい風が吹き、ときどき踊り子たちが姿を見せた。さざめきつつ動く町の風景を眺め、僕らは恋を語り合った。まだ青いリンゴのような、幻に近い恋の話。だけど何の恥ずかしげもなく、夜が更けるまで一つ一つ収穫していった。友人はそのあとで多分、艶やかな赤いリンゴの味を知った。柔らかな甘さと、噛むたびにあふれだす幸福を。

   そろそろ思い出を箱に戻さなきゃいけない。光り磨かれたそれを、闇の中に託す。そして、食材をカゴに入れる。また混沌に身をさらし、熱風へと立ち向かい、たまらずゲロを吐く。鎧を脱ぎ、槍を捨て、畳に座る。また馬鹿やろうと缶を開けて口をつける。身体が火照り、少しだけ愉快になる。布団に横になり、一人きりのスポーツをじっくり楽しんで、無気力のまま眠りに落ちる。こんな感じでそのまま朝が来ても、まあいいかなと笑う。リンゴの匂いがするすると窓の隙間からやって来ないか期待しているんだけど。

まとめ(11)

夜のはらいそ - NIGHT SCRAPS

「はらいそ」というのは、パラダイス、楽園といった意味です。だんだんと人々が寝静まる頃、ほろよいの方々が楽しくお喋りしている様子は、どこか楽園のように思えます。一方で、かんたんな格好で気兼ねなく過ごすのもまた好きです。

ここは水際 - NIGHT SCRAPS

季節の変わり目には、いろんな感情が湧き立ちます。まだ試験期間中だったけれど、町の空気や人々の服装の変化に、つい浮かされて書きました。激しい雨のあとに入れ替わるように蝉が鳴き始めたのは、かなり詩的で、風情のようなものを感じました。ただただ景色やこの町の人々について書くのも楽しいです。

虜 - NIGHT SCRAPS

スピッツに「プール」という曲があり、「君に会えた / 夏蜘蛛になった」と始まります。最近「蜘蛛の手足の数は8本だから、これは身体を交わらせている男女の描写だ」という考察を目にしました。なるほど。この文章における蜘蛛も、そういう意味合いで使っている気がします。一人の自分と、蜘蛛。だけど可愛らしい小さな生き物に、ちょっと友達に近い感情を抱いていたりするのです。

四畳半夜話 - NIGHT SCRAPS

とある人が、深夜にラブレターは書くなとおっしゃっていました。そういうものは朝に書け、と。これは別に恋文ではないけれど、読み返すと「何言っているんだお前」と言いたくなります。でも、これは今もなんですけど、いろんな悲しいニュースに心が砕けかけていたんだと思います。

刺青 / TATTOO - NIGHT SCRAPS

なんとなく、各段落の最初を「夏」で揃えてみました。書き始めたときは、夏の日差しで焦げた肌が刺青みたい、というようなことを書こうと思ったんだけど、よく分からんので変えました。この頃はすごく刺青に憧れていました。自分がしたいというのではなく、こっそり肌に刺れている人と仲良くなりたい、と。ちなみにこれを書いているときはZAZEN BOYSをたくさん聴いていたので、気分はThis is 向井秀徳です。

祭よ - NIGHT SCRAPS

とある事情でスーツを着て街へ出たのですが、夕方帰ろうと路面電車に乗ったら、満員。しかたなく立っていると、隣の人が浴衣ではっとしました。祭の季節。自分はスーツでくたくたなのに、彼らは恋人と手を繋いで人ごみの中へ消えていくのか。どうして人々はこうも祭に誘われるのだろうと、あれこれ考えて書きました。翌日自分も参加したけど、やっぱり人ごみは勘弁だと悟りました。

再上映 - NIGHT SCRAPS

最初は「深夜枠」という題でした。つまり、眠れない夜についつい見てしまう映像、ということです。この文章で自分がはっとしたのは、「このところ大気が不安定で」。何気なく書いた部分だけど、そのまま天気のことを言っているとも取れるし、もっと具体的なあれこれについて述べているようにも読める。そしてそんな状況で暗闇の冷たさにうっとりするというのも、僕だけじゃない、他の人もそうなんじゃないかと思ってしまいます。

KIDS - NIGHT SCRAPS

暮れかかる町を両親と歩きながら、この感じは文章にしておきたいと思っていました。ささやかな家庭の幸福とか、普段着の生活とか。なかなか説明は難しいけれど、きちんと「生活」を書くことの重要性に気づいたように思います。

沈黙は優しい - NIGHT SCRAPS

鈴虫の音を聞きながら書きました。内容は「四畳半夜話」とほとんど同じです。

やがて冬が - NIGHT SCRAPS

ポール・オースターの『冬の日誌』を読み、自分の「冬」について考えました。もちろん自分自身の行動で冬はよりよいものになるでしょうが、どうしようもない部分もあります。自助努力だけでは変えられない部分を、僕らでどう変えていくのか。幸せな人生は頭の中にあるのに、どうしてそれを実現できないのか。僕は日々の中で、新しい価値観をよく目にします。そうした新しさが、古い僕らを早く吐き出して欲しいと願います。複合的な難しい問題を、一つ一つ、国民の力で乗り越えられることを望みます。誰にも冬が来るのですから。

   頭の中でハリネズミが暴れている。あるいは、バラの棘がちくちくと絡みついている。とにかく頭が痛い。部屋の明かりが目に刺さる。些細な音が耳を突く。誰かに「湯船に浸かるといい」と言われたけど、効果が見られたことはたぶん一度もない。結局一番効くのはさっさと眠ることなのだ。何も見ず、何も聴かず、そして何も考えない。こうすればまっすぐな朝が出迎えてくれる。

   布団の中に天使をつれて、きつくないぐらいに抱擁したなら、すやすやと夢まで行けるだろうか。翳った部屋、カーテンのすき間から真白な月明かりが差し込んできて、僕を濡らすように。今日も夜中の三時に眠って朝の六時に目が覚めた。そして九時から正午まで二度寝した。一日が能天気に過ぎていく。ときどきふとしたことで道に迷う。卑下の言葉をつぶやく人たちが光の方へ歩いているのが見える。それが春に萌える緑のさざ波なのか、摩天楼が放つ幻なのかは分からないけど。

   部屋に明かりが灯る。夕餉の支度と食器が触れ合う音。お風呂が満ちていく。食器が片付けられ、洗われる音。お風呂に入るよう僕を急かす声。肩までゆっくり浸かる。頭に棲むハリネズミもおとなしい。ぼんやりと、いろんなことを考える。仕方がないと言われているようなことも考える。少しのぼせた身体、甘いものを食べ、ラジオに耳をすます。夜が更ける。あくびをし、そろそろと布団にもぐる。人が目を閉じて眠るのは、目覚めたときに再び光に恋するためだ。人々の営みにある光。人々のふれあいに宿る光。

   そういえば、昨日新しい服を買った。ごくごくありきたりな紺色のシャツだ。なかなか厚手の生地だから、もう少し涼しくなるまで待ってもらうしかない。僕は窓を開け、風に手を伸ばす。その風が、紅葉を揺らしてくれることを期待する。うん、目が眩むほどの強さではない。だけどこれもきっと、慎ましく僕の胸を弾ませる光の一つだ。

潮汐(Tide)

   夢のくぐり方を間違えた。まだ空も白んでいない、早い時刻に目覚めてしまった。起き抜けのぼんやりした頭。布団の上のナマケモノ。薄暗い中で、枕元のペットボトルに手を伸ばす。唇のすき間から、そして汗腺から逃げていった水分を補いたい。日照りの町が雨を乞うみたいに。口をつけ、ゆっくりと傾ける。思いのままに飲みつづけた。路上の花が静かに雨を享受する。そうして潤いを取り戻した身体は、ふたたび眠りに落ちた。

   昔からの僕の悪い習性で、いったん欲しいと思ってしまうとしばらくそのことで頭がいっぱいになる、というのがある。服や音楽、甘いもの。すっかり美化されて、何をしていても焦点がそちらの方へ流れていく。欲望はこわい。囚われてみるとなかなか抜け出せない。そして実際に買ってみると案外大したことなかった、というのはいつものことだ。自分が勝手に作り出した幻想は、叶ってしまうとすっかり色をなくしてしまう。このおかげで、僕はどれくらいのお金を費やしてきたんだろう。いや、あんまり考えるのはよくない気がする。血眼になって何かを求めている自分は、狂っているし何しろ情けない。

   朝に潤った喉は、午後にはもう渇いている。僕は潮のことを思い浮かべた。どこかで潮が引いているあいだ、違うどこかで潮が満ちている。海水がせっせと移動している様子を想像すると面白い。それはどこか、二人の人物に恋してしまった人の忙しい日々みたいだ。朝食を一緒に食べながらにこやかにお喋りしていると、もうランチの予定が迫っている。それらしい嘘を残して席を立つ。からからの砂浜と、満ち満ちた海洋。

   見慣れた夜が来た。ペットボトルに残った水。コップ一杯分ぐらいだけど、明日の朝のために置いておこう。頭の中でにわかに、こんな服欲しいなあと誰かが絵を描いている。僕自身が欲しいと思っているのか、よく分からない。ああ、僕らの海は今頃どうなっているんだろう。干潮か、満潮か。今このときも、気づかないうちに渇き始めているのだ。どんどん、世界中から。

ゆふれゐ

   本屋。興味のある雑誌を手に取って紙を捲っていると、後ろに人の気配を感じる。見えないけれど確かにいて、見えないゆえに気になってしまう。雑誌の内容が頭に入らない。捲る手を止め、本を閉じる。それを元の場所に戻すと、さささと去る。妙に身体が重い。人とすれ違うだけでひどく神経を消耗して、疲れる。そうして外へ出てみれば、今度は無邪気な熱に構われて、気がつくと汗が噴き出ている。シャツが肌に張り付く。

   最近、肉体がなければどれだけ便利だろうと考える。皮膚も性器も髪もない。衣服も住所もたぶん必要ない。魂だけが町を泳いでいく。あらゆる責任を放棄した姿はずいぶん楽そうで、水のように軽やかに思える。いや、こんなこと考える自分はちょっと疲れているのかもしれない。だけど気分転換に外に出ると汗だくになって憂うつな気分を覚えるし。家にいたって退屈極まりない。TVを見ると息をするのも苦しくなる。ラジオ番組は深夜になるまで面白くない。八方塞がりだ。

   時どき、自分が幽霊のように感じるときがある。いるのにいない。「死んだ者」として眺めているような感覚。光を浴びて人間を演じる彼らを、舞台袖の薄暗がりから見つめる幽霊。物語の終わりを予感しながら、ただそのときを待つだけの存在。死んだ、遅れた者だからそれしかできないんだという虚しさと、ステージでの狂騒と距離があることへの気楽さ。物語よ終わるなと叫びつつ、その内実では「さっさと終わってしまえ」と思っている幽霊。

   肉体はあまりに多くのことを魂に付加してしまう。面倒だなと思いつつ、仕方がないとため息をつく。いつか本当に幽霊になってしまうまで、肉体を労らなければならない。現在地に縛られ、キッチンから漂うひどい臭いに悩まされ、強い風で簡単に吹き飛ばされてしまう。それでも肉体が行なった一つ一つが、僕を残していく。僕がいなくなったとき、部屋に、そして誰かの頭に残ったすべてが、僕を再び作り出す。いないのにいる。それが幽霊。

健やかなる

   いつの間にか、凝った料理を見ると「誰が作るんだろう」と思うようになってしまった。入念な下ごしらえ、丁寧な調理。そもそもこれだけの食材と調味料を用意するのにいくらかかっているんだろう。余計なことばかり気になって料理がおいしいのかはどうでもよくなっている。でも、凝った料理をする余裕のある人が日本にどれくらいいるのかは正直気になる。

   雑誌で見た、仲の良い人と一緒に料理を作ってそれらをつまみながら映画を観る、というのが頭から離れない。一人でただ自分のためだけに虚しくキッチンに立つより、効率も気分も上がる。しかもその中に写っていたフェットチーネカルボナーラがたまらなくおいしそうで、フォークがドレスを纏うようにくるくると巻き、口の中へ運ぶところを想像するとお腹が哀しく鳴った。僕と味覚や映画の趣向が合う人はいるのか分からないけれど、人生で一度はこういう経験がしたい。休日、友人を家に招く。この日のために汗水垂らして掃除した部屋。磨かれたキッチン。味覚の充足という一つの目的に向かっての協働。

   それにしても、健康ってなんだろう。煙草を何十年も吸い続けて元気な人だっているし、逆に身体を害する人もいる。僕は気管支が弱いから煙草は吸わない。どちらかといえば健康的な生活を送っているような気がする。それでもときどき食べたくなる。こってりとした、いかにも身体に悪そうなジャンキー・フード。アメリカの食産業の奴隷だ。いくらかの罪悪感と、抗えないおいしさを抱く。僕はその間、寿命だとかそういう概念を忘れる。あむあむするだけだ。

   僕らが本当の意味で健やかな生活を送るためには、たくさんの問題に立ち向かわなければならない。それはどんな手の込んだ料理よりもうんと面倒で、いくつもの手順を踏む必要がある。たくさんの人がテーブルを囲い、あれこれ喚き立てる中で、全員が納得する料理を作るような難しさ。でも、一つ一つ乗り越えていけばきっと見つかるはず。みんなと言葉を交わし、みんなを尊重し合い、一つ一つ探っていけば。テーブルをたくさんの食器で彩って、くちゃくちゃむにゃむにゃ言わせながら、映画でも観よう。『グッドナイト・ムーン』って映画、僕のおすすめだ。