NIGHT SCRAPS

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サラダ・ボウル

 大学の近所に、新しい家が建った。夏頃から工事をしているのは見ていて、小さな女の子がぽつんと佇んでいたりおもちゃで遊んでいるのも知っていた。今までマンション住まいだったけれど一軒家を建てたのか、はたまた新しくこの土地に引っ越してきたのかは分からない。でもあの女の子が、どの保育園に行ってどの小学校に通うのかという未来図はぼんやり妄想できて、少し楽しかった。

 この町に住み、大学に通いはじめて分かったのは、大学が広場の役割を担っているということだ。この間も、とあるおばさんに話しかけられた。その女性は男の子と女の子(孫だろうか)を連れていて、「やっぱり勉強せんと大学には入れんよね」という言葉を僕に投げてきたのだ。そこから三十分ぐらい話をした(いや、ほとんど僕は聞いてばかりだったな)。おばさんの次男は小学校のころから不登校だったけれど、通信制の高校を卒業して今は結婚しているということ。正直子どもたちは県外に出ずにこの大学に入学ほしいということ...。

 大学というサラダボウルには、さまざまな野菜がぎゅっと詰まっていて面白い。60代ぐらいの男性が僕と同じ授業に出ていることもある。四時ごろには小学生が鬼ごっこをしながら家へ帰っていく。五時には老夫婦がジョギングをしている。大学のベンチに腰かけていると、人生を眺めているような気がしてくる。老いも若きもここにいて、同じ風景の中に納まっている。

 僕の住むマンションのすぐ近くで、新しい家が建とうとしている。朝早くからカンカンと大きな音が聞こえ、着実に建築が進んでいる。誰が住むんだろう。僕がドアを開けて少し見上げれば、その家が目に映る。日暮れに帰れば燈籠のように明かりが灯っているのだろう。その家に住む人の営みが、町を動かしていく。視線を離してみれば、この町じたいが、一つのサラダボウルだ。

 昨日の朝、嬉しいことがあった。星野源さんの新しいアルバムの発売決定。そのおかげか、心が軽やかで、人と話すのも別に気が滅入らない。晴れた空にスキップして、唇から歌がこぼれる。明るい気分だからこんな文章が書けているのだけど、やっぱり人生には楽しみが多くないとね。とりあえず、アルバムの発売日までは生きていけそうだ。幸せは途切れながらも続いていく。


星野源 - アイデア【Music Video】/ Gen Hoshino - IDEA

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ただのやさしさだったのにな

 今季から始まったあるドラマを、毎週欠かさず観ている。主人公の女性は、前の職場が同じだった男性と付き合っている。ここまではとても普通だけど、その彼氏さんが部屋に元カノを住まわせているところで「んん?」となる。次の仕事が決まるまで面倒を見てあげる、と彼氏さんがやさしくしたために、別れたあとも部屋に居座っているというわけだ。

 ツイッターの反応では「邪魔だろ」とか「働けよ」というコメントが見えた。たしかに、彼氏さんが別の女の人と付き合い始めたのにずうずうしく部屋に籠り、ゲームばかりしている姿は情けなく映る。褒められるものではない。でも僕が一番怖いと思ったのは、やさしさだ。ちょっとした親切心や中途半端なやさしさは、首を絞める毛布のようだ。どこかのアニメキャラが「手ぇ出すなら仕舞いまでやれ」と言ったように、一度背負ったものはきちんと蹴りをつけなければならないのだ。

 ついこの間まで、やさしさは母性とか真心のように「いいもの」だと思っていた。だけど今では、「どちらかといえば」という前置きがないとなかなかいいとは言えない。そう考え始めたのは、写真家の幡野広志さんのこの文章を読んでからだ。幡野さんが末期がんを公表して以来、さまざまな「やさしさ」が差し出されている。

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 こうした「やさしさ」に、強い口調で「やめてください」と言うのはむつかしい。払いのけると、「親切心でやっているのに...」と返されるだろう。向こうが無垢に、仏のような顔で訴えているほど、それを払いのけるのは胸が痛む。でも僕らは、そのやさしさに責任まで背負いこむことはできるのだろうか。僕はついつい勝手に同情したり手を差し伸べたがるけれど、その人に最後まで付き添う強さはあるのだろうか。一度繋がれた手は、なかなか離れない。それを離すとき、単に手と手が別れるわけじゃない。

 僕自身、やさしくされたらずうっとそれに甘えたくなってしまう。いや、良くないことは(たぶん)分かっていたし、さっさと自分で立たないとなあとは思っていたけれど、なんとなくずるずる引きずって、その人に本当に迷惑をかけてしまった。やさしさをなんでも一括りにして語ることは少々無理があるのかもしれないけど、生ぬるいやさしさは人も殺せてしまう。ぱっと、手を離すだけで。

 ドラマはまだ始まったばかりだ。主人公の恋愛がこれからどう進展していくのか楽しみだけど、彼氏さんが「やさしさ」とどう決着をつけるのか気になる。風が冷たくなり始めた季節、乾いた自分の掌を自分であたためながら、じっと見守りたい。

手と手

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夜を素描する

 今までどれだけの記事で「夜」について書いてきたか分からないけど、僕にとって夜は結構特別だ。恐ろしいけど魅力的で、とても親しいけれどときどき僕を見放す。そういう矛盾をはらんでいる。夜がくれたものを、僕は言葉でできるだけ表そうと思うし、それによって何かが薄っぺらく嘘くさく感じられても、僕は続けようと思う。

 終わらない夜はない、とよく歌詞で歌われるけれど、夜はずうっと続いている。地球という星から見れば、夜はただ移動しているだけで、終わったわけではない。北のほうの地域では、ある季節にはずうっと薄暗く、日がささないということがあるらしく、その時期には自殺者が増加するという。夜は人の心を蝕み、目から光を奪い、「理性」の封印を解き、本能を檻から逃がす。笑うフリが上手な人は泣きじゃくり、利口そうな人は拳を誰かに向ける。

 それでも夜はどこか優しい感じがして、僕は好きだ。孤独は辛いが、四六時中他人と向き合うことはより面倒だろう。誰かのための自分は必要なく、自分のための自分だけがそこにある。涙を肯定してくれる人はいなくても、恥じらうことなく泣くことができるし、真夜中のラーメンを否定する人もいない。なんだかそういう、「気ままにやっててくれ」という夜の態度が、僕は落ち着く。

 まあ別に誰の損にも得にもならないけれど、ここの名前を「NIGHT SCRAPS」にした。この名前はけっこう前からあったもので、僕の友達は覚えているかもしれない(忘れてても構わないけど)。今までの「VILLAGE GREEN」は、僕の記事を中心に、人びとが考えたり発話する「村」のような場所があればいいなという思いがあったけど、そういうでっかい野望は他の誰かに任せよう。僕は黙々と、夜を(別に夜だけに限って書くわけじゃないけどね)描こうと思う。そして、そのスケッチをいっぱい集めて、いつでも見返せるようにしよう。まあ、そういう感じだ。

 これはれっきとした自慢だけど、僕は自分の文章が一番好きだ。単に他人の文章に無知なのかもしれないけれど、そうじゃないとここまでの数を書いていない。ちょっと前に、「どうすれば文章が上手くなりますか?」という質問を頂いた。もしここで「~という風にすればよくなりますよ」と返したら「うわ、自分の文章を上手いって思ってるんだ、ふっ」と馬鹿にされそうだけど、文章を書くのが苦痛にならないためには自分の文章を好きになればいいと思う。その方法は、いくつも転がっている。

拾われなければただの桃

 以前、「何にもしない」という記事で「何にもしないのも悪くない」と言ったけれど、それはそれでとても詰まらないのだとここ最近感じている。ずうっと同じ場所から星を見上げて、いくつも星座を作り出して、もうこれ以上描けないところまで来ている。ここにいる意味はあるのかよく分からないけれど、星がまた増えているんじゃないかと希望という病にかかって、夜を台無しにする。そういう生活だ。

 怠惰な、堕落的な毎日を送っているわけではない。授業にも出ているし、課題もこなしている。でも、それでも、自分は何をしているんだろうという気持ちが、何度心を潤しても現れてくる。そして、また何もかも萎ませて、朝になると消えていく。文章だってついこの間までするすると浮かんで、いろんな風景を描き、地味な営みを愛でてきたのに、今では毒素みたいなネガティブな気持ちしか出てこない。言葉というのは不思議で、自分が書いたものなのにもう自分のものではないように感じる。

 昨日あたりから、シャワーを浴び終わって扉を開けると筋肉が強張る。Tシャツ一枚では物足りなくなった。そうだ、もう今年も終わろうとしている。でも、どれだけ月日が変わっても、変わらないものもあるんだと気がついた。それは昨日の授業だった。班分けをしたのだけど、同じ班の人たちは誰も自分と合いそうになかった。そして自分以外が硬く結びついていた。いや、人づきあいなんてただの相性だとは分かっているけれど、ここまで違う(産毛から、爪の先まで)とちょっとぐらいは不安になる。

 もし彼らが桃太郎だとしたら、僕はお婆さんに拾われずそのまま流れていったただの桃だ。彼らが鬼退治をしているあいだ、僕は川の流れに身を任せている。海にたどり着くかもしれない。燦燦と太陽を浴びながら、またある日は木枯らしに抱かれながら、桃はずうっと浮かんでいる。そこから見える景色はずいぶん退屈で、360度どこを見回しても同じ色が広がっているだろう。その頃には、桃太郎には子供がいてもおかしくない。

 昨日も明日も、一週間後も同じものだと決められている。そんな海でぷかぷかと漂い、同じ星に二つも三つも名前をつけて、星座の線で空は埋まってしまう。「じゃあどうしてそこを動かないのか?」、どうしてだろう。桃だから?海は広すぎて、前に動くことと後ろに下がることはほとんど似ている。自分が何をしようと、何もしまいと、何も変わらない(ように見える)。ただもしかすると海は、未開の陸地へ波を手配してくれるかも。クジラの水しぶきで、どこか遠くへ飛んでいけるかも。あー、退屈すぎるとこんなに女々しい文章だって書けてしまう。それでは。

花束と陰りと

 昔から暗いところが好きだった。木陰とか押し入れの中とか。日暮れても明りをつけずに本を読んでいたら、父が呆れて「目が悪くなるぞ」と言って立ち上がる、ということが度々あった。正直、薄暗いところで読んでいる方が落ち着けるのだけど。そういうじめじめしたところが性に合うから、日向を見るのは面白い。

 たくさんの受講者がいる授業では、ワーワーとやかましいときがある。一つ一つを聞き分けられればどういうものか理解できるのだろうけど、こう声が重なると、嵐が街を通り過ぎていくような轟音にしか思えない。しかも、耳が割れるんじゃないかと思うほど、かなり甲高い。耳元で芝刈り機が鳴っているような感じだ。僕はあんまり人前で大声を出せる性格じゃないから、「見て、見て」とばかりにお喋りができる人たちが少し羨ましい。

 そういう勇気がないからこの場所でワーワーと言っているわけだ(ネットがたびたび荒れるのもこんなのがうじゃうじゃといるからだろうな)。いや、お喋りする相手がいれば変わってくるとは思うけど、僕の文章を読んでくれる人がいて、逆にその人たちの文章を味わえるこの空間は結構好きだ。ライクもヘイトも、抒情的なものも叙事的なものも詰まっていて、開くときの楽しみがいつもある。

 最近買った本に、『いまモリッシーを聴くということ』がある。イギリスに住む、保育士でありコラムニストのブレイディみかこさんがモリッシーについて書いたものだ。もし今までモリッシーについてまとめた本が出されているとしたら、彼とイギリス社会に焦点を当てて書いたものはあったのだろうか。途中まで読んだ感触だと、なるほど彼がUKのアイコンとして愛されている理由が分かる。マジョリティの立場から、大きな力を皮肉り、批判する。今までジョニー・マーの作るメロディばかり注目していたけれど、ザ・スミスが人気になったのはモリッシーの強烈なキャラが起因していたわけだ。

 僕は彼の、敵を作ることをまったく恐れない強さが好きだ。肉を好んで食べる人や、サッチャリズム、そして数々のミュージシャンに痛烈な言葉を浴びせてきた。何もかもにヘイトするその姿勢をどこかかっこよく感じてしまう。「愛されたいけど愛されたくない」みたいな自己矛盾を何個を抱えて、それでもストレートに発言している。...とまあ、ここまで喋っておいてあれだけど、最近彼のことをあれこれ調べているのは、ゼミのレポートで彼を扱おうと思ったからだ。おそらく、彼と喋る機会があったとしても、仲良くなれるとは思えない。その陰はあまりにも深すぎて、自分の暗さが透けて見えるかもしれないから。

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William, It Was Really Nothing

William, It Was Really Nothing

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Deadline

 窓に結露が粒々と浮かんでいるのに気づいて外に出ると、ひやっとする空気が顔を撫でた。空もなんだか、透き通って見える。未だに日差しにはうんざりする温もりがあったけれど、秋から冬へと移行しているんだということは分かった。

 今日は授業の課題をしていて、気がつくと午後六時を過ぎていた。もう外は真っ暗になっていて、通り過ぎる人の顔もぼんやりとしていて分からない。昼の顔とは違う大学の姿に少しぞっとしながら、最近また気に入っているゴリラズを聴きながら帰った。途中で、制服を着た高校生らしき子たちを見かけて、つい自分の頃を思い出してしまった。

 高校三年生の今頃、ほぼ毎週末模試があった。英語のリスニングをほぼ意識のない頭で乗り越えたあと、自己採点をする。そうしていると、さっきまでは明るかったのにもう日暮れているのが見える。窓に外を眺める自分の姿が写る。自己採点をして、その点数にどうしても一喜一憂してしまう。どれだけやっても点数が上がらない状況に地団駄を踏みたくなったし、ぐんと下がったときには罪深い気分を味わった。しかも、自己採点を終えるとそれを先生に見せなければならない。進む足は重く、去る足は軽かった。

 ずんと沈んだ静けさが、教室を出るときから附いてくる。闇が垂れていて、目を凝らすと星の光も見つけられる。風が冷たくて、頬や耳、指の先が痛くなる。自転車を漕ぎだして道を進んでいくと、自分だけがぽつんといるような感覚になってきた。模試の点数でテンションがダダ下がっているから、そんな風になるのは当たり前だと思う...。今ぱっと思い出せるのは、黒い道路を濡らす赤信号の明かりだ。そして、家のドアを開けた途端に暖かくておいしそうな夕餉の匂いが包んだこと。

 話は変わるけれど、この頃から僕は、ラジオや音楽を聴きながらじゃないと眠れなくなっていた。暗闇や静寂の中にいると、いろんな不安がどんどん出てきてしまう(ような気がする)から、とりあえずイヤホンをして何も考えないようにする。それがすごく楽だと感じていた。だけどここ数日、意識的にアンプラグドして、何も聞かずただ目をつむるだけでも眠れることに気づいた。布団をかぶってじっとしていると、耳をすまさなくても虫の音が聞こえる。なんだかそれに安らぐのか、すっと眠りに落ちれる。

 よく考えればこれが一番自然な睡眠だ。眠るために何かに依存することは、かなり不自然だったのかもしれない。睡眠が落ち着くと、思考もそれに比例してくる。いや、もしかしたらこれも一時的なもので、すぐに情緒が不安定になる恐れがあるから、あんまり豪語できないんだけど。...あっという間に秋も冬も越えて、また歳を取る。毎日毎日、夜や静けさと一緒に。

 ※個人的な話はあんまり好きじゃない。それでも、たまにはしたくなるものだよね。

空のことを考えよう

 大学の新学期が始まった。無数の自転車が校内のそこかしこに止められ、その数だけ学生が歩いていたりじっとスマホの画面を眺めていたりしている。最悪なのはお昼時だ。食堂に並ぶ大蛇のような列とコンビニへと押し寄せる勢いで、一気に胃が痛くなりそうになる。戦場に降り立った兵士の気分でそこをすり抜けて、さっとパンを買う。そしてまた人波を泳ぎ切ると、あとは安楽が待っている。

 忙しい日々が再開された。無理でも規則正しい生活をしなければならないし、眠いなあと感じながら先生の話に耳を向けている。授業が始まると、自分の至らなさや無知ぶりをことごとく痛感する。例えば僕は高校で日本史選択をしたので、世界の歴史についてはチンプンカンプンだ。地理についても詳しくない。そういう場面に直面すると、もっと勉強しなきゃなあとゆううつになる。

 ゆううつになって帰るとき、ふと空を見上げるときがある。ほとんどが晴れたときの空だ。雲はどんな感じなのか、空の何割を占めているのか。そんなことがつい気になって首を傾ける。なにせ田舎の町は高い建物がないから、いつでも空を拝むことができる。僕にとってそれはとても幸運なことで、遠く開かれた青を見ると気分がぱっと軽くなるような気がするのだ。

 昨日の空は「ぶよぶよ」としていた。小さくて丸い雲が、整列しているように規則正しく空を埋めていて、奇妙なくらいだった。そんな空の様子に、なんとなく「ぶよぶよ」という形容詞を当てはめてみたのだ。形容詞を考えるのは面白い。「もわもわ」とか、「ふかふか」とかね。空について考えることはとてもくだらないけど、その時間はいろんなことを後回しにできる。

 できるなら一度は訪れてみたい国に、ギリシャがある。村上春樹さんが『ノルウェイの森』を書き始めた場所だし、『スプートニクの恋人』の舞台の一つでもある。写真で見る限りでもとても美しいと感じるし、その空気感に吸い寄せられる。どうしてこんなにいいんだろうと考えていたら、きっと色が素敵だからだろうという理由にたどり着いた。純白の建物と、鮮やかな青色の対比が気持ちいい。空の顔というのはだいたいどこでも同じだと思うけど、街並みは衣装のように、その表情の機微を伝える。

 村上春樹さんが読者からのメールに応える『村上さんのところ』を読んでいたら、次のことわざを知った。「どんな雲の裏地も明るく輝いている(Every cloud has a silver lining)」。今週末は雨の模様だけど、そんなときも太陽は輝いている......。ありがちなセンテンスだけど、きっと空を考えることは巡り巡って何かの役に立つんだろうなあ。

Dear Prudence

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