拾われなければただの桃

 以前、「何にもしない」という記事で「何にもしないのも悪くない」と言ったけれど、それはそれでとても詰まらないのだとここ最近感じている。ずうっと同じ場所から星を見上げて、いくつも星座を作り出して、もうこれ以上描けないところまで来ている。ここにいる意味はあるのかよく分からないけれど、星がまた増えているんじゃないかと希望という病にかかって、夜を台無しにする。そういう生活だ。

 怠惰な、堕落的な毎日を送っているわけではない。授業にも出ているし、課題もこなしている。でも、それでも、自分は何をしているんだろうという気持ちが、何度心を潤しても現れてくる。そして、また何もかも萎ませて、朝になると消えていく。文章だってついこの間までするすると浮かんで、いろんな風景を描き、地味な営みを愛でてきたのに、今では毒素みたいなネガティブな気持ちしか出てこない。言葉というのは不思議で、自分が書いたものなのにもう自分のものではないように感じる。

 昨日あたりから、シャワーを浴び終わって扉を開けると筋肉が強張る。Tシャツ一枚では物足りなくなった。そうだ、もう今年も終わろうとしている。でも、どれだけ月日が変わっても、変わらないものもあるんだと気がついた。それは昨日の授業だった。班分けをしたのだけど、同じ班の人たちは誰も自分と合いそうになかった。そして自分以外が硬く結びついていた。いや、人づきあいなんてただの相性だとは分かっているけれど、ここまで違う(産毛から、爪の先まで)とちょっとぐらいは不安になる。

 もし彼らが桃太郎だとしたら、僕はお婆さんに拾われずそのまま流れていったただの桃だ。彼らが鬼退治をしているあいだ、僕は川の流れに身を任せている。海にたどり着くかもしれない。燦燦と太陽を浴びながら、またある日は木枯らしに抱かれながら、桃はずうっと浮かんでいる。そこから見える景色はずいぶん退屈で、360度どこを見回しても同じ色が広がっているだろう。その頃には、桃太郎には子供がいてもおかしくない。

 昨日も明日も、一週間後も同じものだと決められている。そんな海でぷかぷかと漂い、同じ星に二つも三つも名前をつけて、星座の線で空は埋まってしまう。「じゃあどうしてそこを動かないのか?」、どうしてだろう。桃だから?海は広すぎて、前に動くことと後ろに下がることはほとんど似ている。自分が何をしようと、何もしまいと、何も変わらない(ように見える)。ただもしかすると海は、未開の陸地へ波を手配してくれるかも。クジラの水しぶきで、どこか遠くへ飛んでいけるかも。あー、退屈すぎるとこんなに女々しい文章だって書けてしまう。それでは。