NIGHT SCRAPS

今 https://note.com/star_gazer_

ぽこぽこと、思考する(12)

・偏頭痛というものはだいたい寝れば何とかなるのだが、今回のはしぶとい。前の学期末のときも、脳味噌を包帯で巻かれたみたいな気持ち悪さと、妙な吐き気を食らった。あの時はあんまり寝ていなかった気がするけれど、今はバリバリ寝て、頭が溶けるぐらい寝ているのに(寝過ぎは脳によくないらしい)こんな感じだ。

 お酒を飲まないから二日酔いというのを知らないけど、たぶん今の「うえっ」という状態と似て非なりだろうな。「あれもしてこれもして...あああ」なんて頭の中でぐるぐる考えて、でもそれとは逆方向に思考が伸びている。本当はいけないけど、たまに甘やかすようにそちらに付いて行ってやる。はあ。どうなるやら。

・疲れているのかしら、ときどき妄想が激しくなる。最近は、自分の部屋に知らない人がいるというのをぼんやり思い浮かんではそわそわと怯える。そういえば、昨日こういう夢を見た。洗面台で身だしなみを整えていると、廊下をすぅっと誰かが通った気配がした。そちらをばっと覗くと、全然知らない黒い服を着た男の人がいる...。こんな片田舎の安っぽいマンションに誰が入ってくるんだ、しかも鍵もしてるし...と分かってはいながら、そういう妄想がつい姿を現す。

 たぶん、ちょっと前にあるニュースを見たせいだと思う。とある女性が深夜にテレビゲームをしていたら、突然ブレーカーが落ちた。仕方がないからブレーカーの方に行くと、そこにまったく知らない男が立っていて彼女は絞殺されてしまう。ツイッターでそのニュースを見てから、ずうっと頭に棲みついている。

・そんな調子でまだぼんやり頭が気持ち悪いけど、今日はKing Gnuという素晴らしいバンドの曲をよく聴いていた。たぶん、売れるのも時間の問題だ。ボーカルが二人いるのだけど、そのボーカルの違いが面白いし、どちらもかっこいい。チェケラ。

Slumberland

Slumberland

  • provided courtesy of iTunes

休日

 ただ飯食って寝て、たまにこうして文章をひねり出す生活がずっと続けばいいのにと思う。料理しているときの、ぽっと自分がいなくなる感覚も一生続いてほしいな。自分の作ったカレーを食べて(まあまあだな)、全然知らないアメリカの30分ドラマを流し見しながら、奥田民生を聴く。十分すぎる休日だ。

 大きな夢とか、立派な大人とか、どこの企業のなんという人が考え始めたんだろう。散歩していたいだけなのに、いつの間にやら持久走になり、今ではハードル走に変わっている。息切れしながら、なんでこうなったと考える。周りばかりが勝手に大きくなって、自分はというと二度寝の気持ちよさに甘えている。布団の中のぬくぬくに足を取られて、目が覚めてやっと今まで夢を見ていたと気づく。ついでに涎にも気づく。

 医療やなんかが発展して、100歳ぐらいまで生きられるようになった。でも100歳まで一体何をするんだろう。いや、長生きしている人を批判している訳じゃなくて、(あくまで自分の話で)自分の老後を想像するとどうも暇そうなのだ。きっと、春だなあと思ったら秋だったわ、ということが起きているだろう。それはそれで楽しめるのかな。そこまで長く生きているとはあんまり考えられないけれど。

 だらだらしたい日には、奥田民生の歌が一番合う。「頑張れ」とか言う音楽はそれはもうたくさんあって、ほとほと疲れるんだけど、「休もう」と言ってくれるのはたぶん奥田民生ぐらいだ(他に言っている人がいたら、ぜひ教えてほしいな)。一生懸命に、お金をかけて「休もう」と歌っているんだから、憧れる。そうだよな、充分休んでから行こう。いちいち道草して行こう。ぱっと晴れた休日には、昼ぐらいまでたっぷり寝て、ご飯食べてぶらぶら散歩して、それからちょっとだけ頑張る。その後には...何しようか。まあいいや。肩の力を抜いて、床を背泳ぎで泳げばいい。休日ぐらい、こういうオチのない話を書いたっていい。あとはいい音楽に任せるのだ。

休日

休日

  • 奥田 民生
  • ロック
  • ¥250
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モリッシーはずっと新しい

 ゼミの研究として、イギリス・マンチェスター出身のミュージシャン、モリッシーについて調べてきた。調べる前からずっと好きな存在だったけれど、いろいろと知っていった今では特別な感情抜きに彼のことを見ることができない。調べてきたこと(既に語られてきたことばかりだろうけど)を少し話したいと思う。

 彼は(おそらく)常に、ずうっと同じ立場で詩を書き続けている。マイノリティ、社会の中で押しつぶされ、無きものとされている人々の立場だ。それはきっと、彼が北部の労働者階級の家庭に生まれ育ったことが要因の一つであるような気がする。とにかく彼は、「下」から社会を視ている。そんな彼が批判、風刺してきたのはあまりにも多くのことだ。まずは何といってもサッチャー政権、そして王室、食肉、教育...。さらにザ・スミスは、1988年に解散するまでずっとインディーズにこだわり続け、産業ロックとも対峙していた。

 じゃあ、彼の詩を見て行こうと思う。一番顕著にサッチャー批判が現れた詩が、‘‘Margaret on the Guillotine’’だ。もうそのまま、ギロチンにかけられたサッチャーという意味である。「親切な人々は夢見ている、ギロチンにかけられたマーガレットを。(中略)いつあんたは死ぬんだ? いつあんたは死ぬんだ?」。そしてもう一つ、‘‘Interesting Drug’’の歌詞にはこんな言葉が出てくる。「政府の政策意図なんて、君たちの夢を台無しにするためにあるんだ」。

 ザ・スミス時代の彼のパフォーマンスを見てみると、花束を振り回したり、くねくねしたダンスを踊ったり、よくある「ロックミュージシャンらしさ」みたいなものを感じない。それはつまり、中性的で、ロック音楽につきまとう暴力やセックスのイメージとは対極にあるということだ。ザ・スミスが活躍した時代は、ちょうどサッチャー政権の時代だった。彼女が行った経済政策は、多くの労働者を失業させ、彼らのコミュニティを破壊した。労働者たちは立ち上がって権力に対抗したけれど、敵うはずがなかった。彼らは貧しく、そして無力だった。モリッシーの詩は、そんな彼らの心を掬い上げていた。

 モリッシーは85年のインタビュー*1でこう答えている。「非常に繊細で、セクシュアルな文脈を介さずに女性を理解できる人間だと思われたい。セクシュアルな文脈でしか女性をとらえられない男性が嫌いなんだ」。彼の言葉は、なんだかずしんと重い。僕はこの意味を、長いあいだ考えることになると思う。セクシュアルな文脈で女性を捉えるとは何か。そしてそうした文脈以外で女性を理解するとは。自分にナイフを突きつけながら、彼の言葉を暗唱し続けるだろう。

 まだまだ書きたいことはあるけれど、これくらいにしておこう。彼の、ときに攻撃的な、またある時には中性的な態度(その矛盾)は僕にとって永遠に美しく、魅力的であり続ける。ぜひあなたも、モリッシーの世界を一度訪れてほしい。もし時間があれば。


Morrissey - Suedehead

*1:ポール・A・ウッズ編『モリッシー・インタビューズ』(新谷洋子訳、シンコーミュージック・エンターテインメント、2018年)

ボディー・ブロー

 ときどき、予期しない所からボディーブローを食らう。本当に殴られるとかそういうことでは決してなく、心をぐっと鷲掴みされるみたいなことだ。それをちょっと比喩で言っているのだ。この間もツイッター深沢七郎さんのことを知って、一気に興味を持ってしまい、いろいろと調べたり本を図書館で借りたりした。今はやや忙しくてそんなに読めていないけど、『楢山節考』は数ページ読むだけで「ああ面白い」と思う。

 よくネットへの批判として、「恣意的な情報ばかり集めやすい」というのがある。自分に都合のいいものばかり見るから、どうしても見方が極端になってしまうのだ、と。確かによく分かる。あと、ネットの世界はもともと狭くて、現実世界とのギャップは回避できない。「これは批判が噴出するだろうな」と思ったことでも、透明人間が通ったみたいに何にも起こらず終わったし、自分がずいぶん恣意的な世界に棲みついていることはたびたび痛感する。

 それでも、誰かが胸の内に潜ませていたものをそっと見せてくれるときがある。普通に生きていたらとても知ることがなかったものだ。そうして、木立に枝葉が一つ一つと増え、そこからまた枝が広がっていく。確かに身勝手に手繰ったものかもしれないけれど、ツイッターはそういう意味ですごく便利だと思う。なぜなら、これは会話だけじゃなく独り言にも向いているからだ。相手を想定して口をつぐむことなく、好きなことを割と自由に話すことができる。誰かの独り言をたどるうちに、とんでもないボディーブローに出会う。一度受けると、もう二度と元には戻れないブローだってある。

 ...親と話していると、デジタル社会が進みすぎることの苦しさを感じる。なんだか勝手にデジタル機器が普及して、それについていくことを半ば強制される。今はなんとかついていけている僕でも、歳を取るとどうなるかわからない。デジタル社会から排除された自分を思うと、かなり切ない。ボディーブローの感触も忘れてしまって、ただただ「ついていけなさ」を味わう。だから今のうちに、と蓄えられるだけ蓄えるのだ。

 今、僕が一番食らっているのが「暮らす」というボディーブローだ。深沢七郎もそうだけど、生活のことをしっかり考えている人にふうっと誘われる。吉岡里帆さんが出汁を取るにちゃんと昆布や鰹節から取っているのを知って、偉いなあと思ってしまった。僕はサボって、粉瘤のものを使っている。そういう小さいところからちゃんとしないといけないんだろうなあ。まだまだ子供の季節だ。

朧な爪

 そういえば、今日は誰とも喋らなかった。大学生になってすぐは、誰かとすぐに仲良くなれるものだと思っていたから、そのことにすごく傷ついた。もの静かな部屋に佇む自分が憐れで仕方なかった。でも今は、そんなことを思い返すことも少ない。慣れというのは恐ろしいものだ。僕は、「誰とも喋らなかった」ことになんにも感じない今の自分がなんとも哀しい。

 月曜日に喫茶店が営業を再開したとき、本当は行きたいと思っていた。ご飯を食べながら本を読みたかった。だけどその日が来てふいに「今じゃないかな」という謎の声がして、今日の今日まで引っ張ることにした。例えば料理に好きな食べ物があったとき、先に食べるか最後まで残すか分かれるけれど、たぶん僕は後者なんだろう。けちけちと、楽しみをそっと置いておくのだ。

 午後五時の半ば過ぎ、空に明るさが若干保たれている頃、とぼとぼと歩いた。一週間の疲れや、「しんどいなあ」とこぼした夜を引き連れて。コンクリートの階段を上るとき、コツコツという音が小さく響いた。扉を開くと、いつも座っていた席には女の子が座っていて、仕方なく奥の方の椅子に座る。すぐ横には二人の男の人がいて、一人は大学四年生で就活をしているらしき人、もう一人はその人より先輩で、もう仕事に就いていると思われる人だった。知らないふりをしていても、彼らの会話が自然と耳に入ってくる。そのすべてが、就活の話だった。もうこの世には「就活」という概念しか存在しないんじゃないかと思ってしまうぐらいだった。本を読んだり、サンドイッチを齧っているあいだも、そのことをつい考えさせられた。...ぶつぶつぶつ。

 喫茶店でたっぷりと滋養(漫画をそこそこ読んだ)を吸い込んで、外へ出た。金曜日の夜。ひと気のなくなった大学を通り過ぎ、少し遠回りして家まで帰る。車のヘッドライトが疎らになると、空に星の光がちらちらと浮かぶ。遠くには月がきれいに欠けている。爪切りで切った親指の爪がどこかへ飛んでしまって、夜の暗がりでぽかんとぶら下がっているみたいだ。それにしても、きれいだと思った月を撮ろうとスマホを取り出しても、ぼけてしまって全然だめなの、どうにかならないものかな。

 僕らはずいぶん想像力が豊かだから、いろんなことについてああだこうだと考えこんでしまう。未来のことを想像すると、トランクから溢れてしまうぐらいの苦しさが現れる。だけどまあ、そんな大きいことを思ってお腹を痛めたって仕方ないわけだ。...たぶん。一週間乗り切ったらあそこに行こうとか、明日あれを食べようとか、そんなのでいいんじゃないかと、自分の都合よく叫びたい。おわり!

YOU AND ME

YOU AND ME

  • KIRINJI
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

ぽこぽこと、思考する(11)

人文学部で学んでいると言うと、「何してるの?」と訊かれることが多い。僕はどうしようもなくて「いろいろ」としか答えられない。文学や哲学、心理学や社会学なんかの幅広いことをやっているから、ときどき「何してるんだろう」と思う。結局、「何にも知らないんだなあ...」という途方もない気持ちにさせられて、疲れる。毎時間、分からないを味わうから、偉そうになる隙もない。

・お風呂に浸かると、ふと身体をつねってしまう。お腹の脂肪をむにむにと触ると、程よい痛さが妙に気持ち良かったりする。胸の脂肪もついでにむにむにしておく。太った。スポーツが苦手(というか、スポーツにまとわりつく「団結」とか「連帯」が苦手)だから腹筋はずっと割れないだろうし、スタミナはほぼ皆無なのだ。やだなあ。でも安野モヨコさんの『脂肪という名の服を着て』という作品を読んでからは、あんまり無理に痩せるのはだめだなと感じて、今もカントリーマアムを食べている(おいしい)。

・それにしても、脂肪の服はなかなか脱げない。あんなに着やすい服なのに、脱ぐとなったらとにかく時間がかかる。まず心の準備が必要だし、身の回りも変えていかないといけない。ああ、しんどいなあ。寝る前になったら絶対お腹すいちゃうのよ。空きすぎてお腹痛くなって「食べたい」という強い気持ちで眠れなくなる。いや、まあ、ふと手に取って口に入れちゃうよね、カントリーマアム。

・歳を取ってしまったからか、いろんな自分の状況をとにかく肯定しようとする自分がいる。これは仕方ないことだ、と。ポジティブではあるけれど、ちょっとした努力で改善できるようなことも「仕方のないことだ」と片付けてしまっているようで、不安になる。人々が頑固になる所以が少しわかった気がした。ああ、僕の地盤を何度も何度も揺らして、危なくしてくれる人が欲しい。「もっとこうしたほうがいいんじゃないの?」「君はそれでいいの?」と僕を静かに怒鳴ってくれる人が欲しい。と、ひとりぼっちで書いている。哀れだなあ。

 

 「ひとりぼっち」という言葉の語感が好きだ。「い」の音と「お」の音が繰り返される感じ。今日はここぐらいにして、眠ります。寝ても寝ても、ずうっと眠いや。朝が憎い。

オセロ・ゲーム

 帰省を終えた日。高速バスにまた揺られ、そこからJRに乗って自分が住むマンションへと帰った。途中、身体はくたくたながら空腹だったのでスーパーに寄った。時計を見るともう午後七時をまわっている。夜の中で煌々と営むスーパー。適当にいろいろ詰め込んで、レジに向かった。店員さんの顔はあんまり見ないけれど、ふと視線を移すと、同じ大学の同じ学部の同じ学科の人だった。授業でも何回も見たことがあるし、何ならグループワークのためにラインも交換している。だけど、中途半端なのだ。

 ときどき、全然知らない人の方がすらすら喋れることがある。向こうも僕のことを何も知らず、おそらくこれからもずっと知ることはないだろうと確信できると、何の心配もなく会話を交わせる。だけどなんというか、「ちょっと知ってる」とか「見たことある」人の場合、そしてその人とこれからも(薄っすらと)関わるだろうなというのが分かると、もごもごしてしまう。

 その分ネットは楽だなあと思う。非道いことをやらかさない限り、自分のことをあんまり知られず、自由になんでも言える。普通だったら発言に乗っかるようないろんなバイアスが、ほぼ無重力になる。だからペチャクチャ呟いてばかりいたら、この間の成人式で「ツイッター見てるよ」と言われて心が赤面した。まあいいや。これは僕だ!という感じで、相も変わらずつぶやいている。

 知り合い、言葉を交わし、仲良くなって、いつか気まずく面倒な関係になる。そうなると、高校の同窓会とか出れないし、下手をすると街も歩くのも嫌になる。それはどこか、オセロをやっているときに置く場所が無くなったときと似ている。どんどんゲームを進めて行って、するとどんどん置くところが減って、「ああ、ここに置いちゃだめだ...」と分かりながら石を打つ。波を打つように盤が相手の石の色に変わっていく。そういう気まずさを、人と知り合うたびに味わっている気がする。

 それでもやっぱり、人と交わすのをやめるわけにはいかないのだ。「人は一人で生きていける」なんて、そんな甘い話ないのだから。僕らは博打をうつように人と言葉を交わし、時には身体を交わす。この人とずっと付き合っていけるか分からずに、それでも愉しさに駆られて時間を費やすのだ。僕が白い石を置いて、相手が黒い石を置く。外から青い石が飛んできて、盤を支配してしまうときもある。またやり直して、一緒にオセロをしてくれる人を探す。全然そんなそぶりも見せず、人を寄せ付けないふりをしながら(単に恥ずかしいだけだ)。

メランコリーキッチン

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  • 米津玄師
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