モリッシーはずっと新しい

 ゼミの研究として、イギリス・マンチェスター出身のミュージシャン、モリッシーについて調べてきた。調べる前からずっと好きな存在だったけれど、いろいろと知っていった今では特別な感情抜きに彼のことを見ることができない。調べてきたこと(既に語られてきたことばかりだろうけど)を少し話したいと思う。

 彼は(おそらく)常に、ずうっと同じ立場で詩を書き続けている。マイノリティ、社会の中で押しつぶされ、無きものとされている人々の立場だ。それはきっと、彼が北部の労働者階級の家庭に生まれ育ったことが要因の一つであるような気がする。とにかく彼は、「下」から社会を視ている。そんな彼が批判、風刺してきたのはあまりにも多くのことだ。まずは何といってもサッチャー政権、そして王室、食肉、教育...。さらにザ・スミスは、1988年に解散するまでずっとインディーズにこだわり続け、産業ロックとも対峙していた。

 じゃあ、彼の詩を見て行こうと思う。一番顕著にサッチャー批判が現れた詩が、‘‘Margaret on the Guillotine’’だ。もうそのまま、ギロチンにかけられたサッチャーという意味である。「親切な人々は夢見ている、ギロチンにかけられたマーガレットを。(中略)いつあんたは死ぬんだ? いつあんたは死ぬんだ?」。そしてもう一つ、‘‘Interesting Drug’’の歌詞にはこんな言葉が出てくる。「政府の政策意図なんて、君たちの夢を台無しにするためにあるんだ」。

 ザ・スミス時代の彼のパフォーマンスを見てみると、花束を振り回したり、くねくねしたダンスを踊ったり、よくある「ロックミュージシャンらしさ」みたいなものを感じない。それはつまり、中性的で、ロック音楽につきまとう暴力やセックスのイメージとは対極にあるということだ。ザ・スミスが活躍した時代は、ちょうどサッチャー政権の時代だった。彼女が行った経済政策は、多くの労働者を失業させ、彼らのコミュニティを破壊した。労働者たちは立ち上がって権力に対抗したけれど、敵うはずがなかった。彼らは貧しく、そして無力だった。モリッシーの詩は、そんな彼らの心を掬い上げていた。

 モリッシーは85年のインタビュー*1でこう答えている。「非常に繊細で、セクシュアルな文脈を介さずに女性を理解できる人間だと思われたい。セクシュアルな文脈でしか女性をとらえられない男性が嫌いなんだ」。彼の言葉は、なんだかずしんと重い。僕はこの意味を、長いあいだ考えることになると思う。セクシュアルな文脈で女性を捉えるとは何か。そしてそうした文脈以外で女性を理解するとは。自分にナイフを突きつけながら、彼の言葉を暗唱し続けるだろう。

 まだまだ書きたいことはあるけれど、これくらいにしておこう。彼の、ときに攻撃的な、またある時には中性的な態度(その矛盾)は僕にとって永遠に美しく、魅力的であり続ける。ぜひあなたも、モリッシーの世界を一度訪れてほしい。もし時間があれば。


Morrissey - Suedehead

*1:ポール・A・ウッズ編『モリッシー・インタビューズ』(新谷洋子訳、シンコーミュージック・エンターテインメント、2018年)