NIGHT SCRAPS

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夜も昼も

 いま熱中して、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』を読んでいる。おなじみの喫茶店でこの本を見つけて、すぐ手に取った。テーブルに置かれたアイスコーヒーのことを忘れるぐらい、内容に没頭した。グラスがじんわり汗をかき、テーブルを濡らした。第一章、本当に素晴らしい(そう思いませんか?)。片山さんの翻訳も優れているのかもしれないけど、なんだろう、このすごさ。読者の意識が、幻想的な美しさとぐるぐる渦を巻く苦悩とを行き来する。

 その喫茶店は本も売っているから、思い切って『自分ひとりの部屋』を買うことにした。ぼんやりした熱に呑まれ、そうせざるを得なかった。そのまま外に出て、風を切って家まで帰った。紙をぺらぺらと捲ると、あのお店の匂いがひらりと香ってくる。どんな匂いか形容できない、「あのお店の匂い」だ。200ページぐらいの短い作品だから、読むのを躊躇してしまう。大事に大事に読んでいるところだ。

 それにしても、こうしたフェミニズム批評の古典を読んでいると、不思議な気持ちになってくる。それは、僕が男だからだ。なんていうか、ヘテロセクシャルの人がその他のセクシャルについてあれこれ述べてもどこか「空想」に近いのと同じで、男が女性の苦しさを理解しようと思っても、永遠にたどり着けない気がしているのだ。でも僕は今日もウルフの文章に向き合って、彼女たちの苦しさを思う。そして、日本という国で起こるいろんな問題(「同意があったかなかったか」「抵抗していたかしていないか」)についても思考を巡らせる。真夜中の路地、「抵抗できないようにして暴行されるかもしれない」彼女たちのことを。それってすごくぞっとするんだけど。

 すごくシビアな話になってしまった、どうか胸やけを起こさないで。僕はときどき「男でいるって疲れるなあ」と感じることがある。かと言って女性もいろいろと大変そうだ。はあ、そういう苦しみを全部脱いで海に行きたい。逞しい筋肉も、美しい髪も必要ないところ。できれば、今まで僕が生きる中で培った「男性」としての意識も、置いていきたいのですが。そうなったらずいぶん孤独だろうか。でも今は、ニュースを見る度に自分の性別に幻滅するのだ。...ため息。今日はここまで、もう寝よう。

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

自分ひとりの部屋 (平凡社ライブラリー)

 

町くらげ

 ふと本屋に立ち寄って、目当ての雑誌がないことを確認してそこを出ると、外はもう薄暗くなっていた。遠くの空はかろうじて淡い青色をしていたけど、それさえ消え去りそうだった。侘しさを感じながら自転車に乗ろうとしたら、道に迷った男の人に話しかけられた。「スマホの充電が切れてしまって...」。地図を説明するのが難しいから大きい道に出るまで一緒に行きましょうかと、二人で少し歩いた。彼は大阪出身で、小学校で勤務するために最近ここに来たのだと知った。そして僕と同じく方向音痴だった。

 この町では時間がゆっくりと流れている気がする。僕がそう言うと、彼も頷いてくれて嬉しくなった。公園のそばを通り、小さな橋を渡り、割と大きな道に出た。スマホの画面を彼に見せながら拙い説明をして、彼と別れた。バイクで走っていく彼の背中を見送って、僕も薄闇の中を進んで部屋に戻った。あの人、ちゃんと帰れただろうか。

 ふとした出会いもあるんだなと思って、その喜びからこの文章を書いている。ここ数日、人が多いところにいると疲れたりうんざりしてしまうことがあった。かつ、人と接するという経験があまりにも乏しいために、たった十分ぐらいの出来事に依存している。この町に吹く風は、まるで呑気に泳ぐクラゲみたいで、それを二人して感じていること。ばちっと電気が走る感覚があった。そして僕は厚かましく、彼が子供たちの前で話をしている様子を想像する。「先生が道に迷ったときに、案内してくれた人がいてね...」。子供たちのどうでもよさそうな顔が浮かぶ。でもいいのだ。

 まだ痩せこけた枯れた枝もあれば、花が色づく枝もある今。膨らみ、実になり始めた未来をあちこちで眺めることができる。永い春にはいろんなことがあるだろうから、あなたが狂いそうになったら静かな町に来てガーっと叫べばいいと思います(僕はしたことないけど)。ここには、クラゲがいます。大きくて無口で、ときに見えなくなってしまう、そんなクラゲがこの町の営みを生み出しています。

君と暮らせたら

君と暮らせたら

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忘れられないの

 町に吹く空気が少し変わってから、大学のベンチで本を読むのが楽しかった。それは時にはマッカラーズの『結婚式のメンバー』だったし、サリンジャーの『フラニーとズーイ』や、『ムーミン谷の仲間たち』だったときもあった。後半の二つは読み終わっていなくて、気分によって本を変えていたのだけど、パンを食べながらぶつぶつ読書している時間はとても優しかった。

 それでも今日そこにいってみれば、いろんなサークルが新入生の勧誘のために陣取っていて、僕は無言のまま図書館へと吸い寄せられた。図書館はとても静かだから、お腹が鳴れば「ぐう」という音がいつまでも宙を舞っている。それがすごく恥ずかしくて、お腹が弱い僕は長居ができない。だから、今はあんまり居場所がない感じだ。

 春の空気に触れながら、懐かしい曲をふと思い出して再生して、古ぼけた感触でしばらく遊ぶ。その感触に対する未練とか鬱陶しさは、「まだそんな思い出に浸ってるの?」と嗤われてもそれでも引き出されるもので、ある意味麻薬みたいなものだ。いったん忘れても(年越しにかこつけてチャラにしようとしても)、季節が一回りすればコイツがひょっこり顔を出す。一緒に入水自殺してやろうかと思うぐらいにしぶとく。

 元号が変わってみんながお祭りわっしょい大騒ぎしている間だって、大して変わりなく日々は巡っている。満員電車はずっと憂鬱で、雨の日は宅配ピザのドライバーが大変で、赤ん坊の声は真夜中の家に明かりを灯す。スピッツが好きだったあの子に、新曲を聴いたかラインしてみたいけれど、なんとなく先延ばしにしている。ずっと会っていない人とは、いったい何を話したらいいのかさえ分からなくなって、つまらない思い出話ぐらいしかできなくなる。そうやって知人がどんどん他人になっているのはつらいけど、仕方ないことなのかもしれない。

 みんなが新しい意識を持っているのを見ていると、僕もちょっと影響されてしまう。新しい日々。今は目隠しされた道を歩いているけれど、いつかふわふわの光が現れるだろうか。それまでの間、友達と無駄にした夜や、自分が綴ってきた言葉を再生しながら歩いていこうかな。

花の写真

花の写真

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桃色の風

 春という季節に、別段いい思い出もない。例えばクラス替えだ。人間観察をするのが好きで「誰々と誰々が仲良くて、誰々はそうでもない」と考察ばかりして、自分はその輪に入るのが苦手だった。もう出来上がっている関係のなかに入って「僕も僕も」と主張する勇気がなかったのだ。

 さて、図書館で本でも読もうかと行ってみれば、男女が隣り合わせに座り、仲睦まじそうにしている。つい中指を立てそうになるけど、我慢して席に座って本を開ける。どうやってこの二人は知り合ったのだろうと頭の片隅で推理してみたりする。サークルが同じだったのだろうか。それとも、二人とも同郷で、昔からの知り合いだったのだろうか。どちらにせよ、二人は本当に幸せそうに見える。きっと勉強もその他のことも二分割しているんだろう。正直、羨ましい。

 自分は気づかなかったけれど、町には桃色の風が吹いている。人々を繋ぎ、頬を赤く染めさせる。桃色が色褪せてお互いのだらしないところが目についても、それさえも愛おしく、可愛らしく感じられる。寝癖のままで、寝間着のままで、なーんにもしない。そういうのが良いなあと思う。

 春はずいぶん忙しない。新しい環境にあたふたしていた過去と、これから先の(たぶん忙しくなるだろう)未来を同時に考えるからだ。そして今のこともちゃんと意識しないといけない。ああ大変だなあと分かっているけど、ついうたた寝してしまう。仄々とした温もりに抱擁されながら、夢の谷間に落ちていく。もう何もかもが面倒くさく感じられる。やらなきゃいけないことをテキパキとこなせる人がすごい。本当。

 次に桃色の風に出会うのは、自分がどういう環境でどういうことをしているときなんだろう。クラス替えでひとり慌てていた頃の自分とは相も変わらずだけど、いつか恋に浮かれて、(羽織っていた上着も脱ぎたくなるぐらい)じんわりのぼせてしまうときが来たら、それはきっと春だろう。

春風 <Alternative>

春風

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朝と抱擁

 桜の開花が発表された日。久しぶりに温かなやさしさに包まれた日。古着屋さんでよさげな半袖シャツを見つけて、安かったけれどそれだけを買った。部屋に帰って来て着替えてみて、「うーん、いいなあ」と思ってまた脱いだ。スーパーで買った食材を冷蔵庫に詰め、厚揚げとこんにゃくの煮物を作った(一日しゅませるとかなりおいしいのだ)。時計を見るとまだ三時だった。いい天気だからと、僕は本屋さんに行ってサリンジャーの『フラニーとズーイ』を購入した。どこかからどこかへと移動するのはやっぱり嬉しいと思った。

 でもその日の夜は(''夜も''かもしれない)全然眠れずに、嫌なことばかりぐるぐると考えてしまった。普段は昼の光に守られてぼやけた景色が、夜の乱暴さではっきりと映るように、いろんな不安が途端に現れた。はあ、やだなあと思いつつ目を見開いていた。その不安の多くは将来仕事に就かなければならないことについてだった。誰か哲学者が言っていたけれど、仕事はきっとその人の人格にも影響を及ぼすだろう。サラリーマンはサラリーマンらしい人間になり、農家は農家らしい人間になる。たぶん。

 そんな風にうだうだ考えて、いつの間にか子供のように丸まって眠っていた。お昼ごろ目覚めて、一日ずっとムーミンの動画を見ていた。洗濯物を取り込んで、ときどきスナックを頬張り、優しい物語を見続けた。どの話もたっぷりの栄養と教訓に満ちている。ニンニの話は特に涙があふれた。ぜひ観て欲しいな。ムーミン谷のキャラクターはみんなクセがあるんだけど愛があって憎めない。村で起こるさまざまな出来事が彼らの愛によって解決されていくのが、本当に素晴らしい。磨きたての清らかな朝の輝きが、どんな闇も力強く抱き上げるように。

 明日はトーベ・ヤンソンの原作を買おうか...。いい天気だといいな。早く半袖で外に出て遊びたい。

Eat At Home

Eat At Home

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ぽこぽこと、思考する(15)

・休みの日に限って、何かしないといけないような気がしてくる。空っぽの頭にどんどんと液体が流れ込んでくるみたいに、変な義務感が支配する。いやだ。かと言ってむつかしい本を広げてみても、頭がスカスカなのだから入るものがない。ただぼんやりとゲームをしていたら、もう夕ご飯を食べる時間になっている。

・いつものように夜更かしして、もう限界だというタイミングで眠りに落ちる。スマホの目覚ましで設定していた時刻よりも早くに目覚めてしまって、あと少しと枕に沈む。そうすると起きるのは三時間後、正午近くだったりするのだ。生きている心地があんまりしてこない。車が濡れた車道を走る音がする。予報通り、雨らしい。カーテンを開けるのも億劫ではっきりは分からないけど。今日は祝日だから図書館も閉まっている。ベッドで過ごす春の日。猫みたいに身体を伸ばして欠伸してみる。彼らのようにのほほんと。

・そろそろとベッドから立ち上がり、カーテンをさっと開くと控えめな青空が顔を出している。洗濯するためにベランダに出ると、人肌ぐらいの温い風に乗って、雨上がりの匂いが伝わってきた。「何にもしないのもなあ」というきもちが途端によぎり、髪を洗って服を着替え、湿気の多い町を歩いた。久しぶりにポール・マッカートニーを聴きながら歩いた。のんびりとした空気が妙に苦しい。そろそろ桜の花が開く頃だろうか。ただぼうっと歩いていたから、お腹が空くばかりで、他には何もなかった。こんな風にして一日一日過ごしている。だあ。

まぶしがりや

 ずっと読みかけだった本をやっと読み終えた。カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』だ。1946年の小説を村上春樹さんが新訳したもので、カバー写真にはマッカラーズ自身の姿が写っている。物語は「緑色をした気の触れた夏のできごと」で、十二歳の少女フランキーがその主人公だ。彼女は、兄の結婚式で人生が変わることを夢見ている。新婦新郎とともにどこかの土地へ流れていきたいと思っている。どうしてそこまで結婚式に拘るのか疑問に思うほど、彼女はそれに執着し、ときどき無茶をやらかす。

 途中、女料理人のベレニスに対して、何かを伝えたいのだけど全然違うことを口にしてしまう場面があって、そのもどかしさが巧みだなあと感じた。とにかく、フランキー(またの名をF・ジャスミン)の心情の機微がふわりと表れている。飴色の空想の世界、どこか知らぬ場所への憧憬、無鉄砲でなりふり構わず突っ走る姿。光が道路で跳ねて、瞳を夜空の星にする。

 そんな彼女も、十三歳になって変わっていく。従弟である六歳のジョン・ヘンリーが亡くなってしまって、彼の存在も風のように溶けてしまって、辺りの景色が灰色に暮れていく。ありきたりな幸せで笑顔を見せる少女。落ち着いたフランキーの仕草は成長だと思う一方、どこか切ない。読者はそうして本を閉じる。しかし、またしばらくしてページを捲り始める。あの頃のフランキーに出会うために。

 誰もがきっと十二歳という季節を通り過ぎて、だんだんと社会性を帯びていく。尖った部分も削られて、大きな集団にまとめられてしまう。社会からはみ出た部分がいつの間にか「羞恥」なものとして記憶される。そしてふっと、世界から色が抜けていくのだ。

 ペシミズムはこれぐらいにして、『結婚式のメンバー』は描写が美しい作品だと思った。そして繊細だ。フランキーが兵隊の男と二人きりになるシーンがあるのだけど、彼の態度に隠された得体のしれない欲望が、やたら気味悪く感じられる。そう、欲望の対象として見られていることの気味悪さ、というか。この物語を読んでいる間は、あらゆることに盲目で、しかしながらきらきら眩しい少女になりかわっている。その子はまだ夜を知らず、齢を取ることも知らない。何か魔法めいたものに守られたときに住んでいるのだ。それはもう、僕の住めない場所だ。

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)