NIGHT SCRAPS

今 https://note.com/star_gazer_

離れた場所で同じ風を吸う

 去年かな、友達と一緒にラジオを聞いたことがある。一緒に、って言っても、別々の場所で聞いてラインでおしゃべりするのだ。それがなんとなく楽しくて、忘れられなかった。あと、「逃げるは恥だが役に立つ」を見ながらCM中にラインして「あそこよかったね」とか「どきどきした」なんかを話して盛り上がったりした。もちろん、一緒に映画館に行って映画を観てそのあとに感想を言い合ったり、同じ部屋でゲームしたりするのも楽しいけれど、お互い一人きりの部屋で同じものを共有するのもまた違う喜びがあった。

 星野源さんのラジオを聞くときも、ときどきツイッターを開いてみんなどんな反応してるんだろ、とチェックしてみる。ラジオというメディア媒体が面白いのは、耳で聴いた音の世界をみんなが歩いている感覚がするからなのだ。ラジオ局は「ステーション」と表されることがたびたびあるけど、それぞれの耳の奥にはほんとうに駅があるかもしれない。別々の道順でそこへたどり着いて、運がよければ友達に会える。ちょうど席が隣になった人と知り合いになる可能性だってある。それは「今すぐ」ではないかもしれないけどね。数年後、十数年後かも。なんにせよ、駅にいた時間や、駅で夜を明かした記憶は結構ずうっと残るはずだと、ちょっと信じている。

 今日、POYEYEを買いました。今月は「ぼくの好きな音楽。」で、いろんな人が自分の好きな音楽を紹介している。しかも結構ディープな内容で、そこらへんの音楽雑誌にはない世界があってページを捲るのが楽しかった。でもみんなどこで音楽を知るんだろうね。お店で流れてる音楽で良いなと思うものがあっても「この曲って何ですか?」と店員さんに聞く勇気がない。だから自然と自分一人であれこれ探したり調べたりしている。昔から(そんなに友達がいなかったせいもあるけど)流行の音楽をそんなに聴いていなくて、中二のときにユーミン山下達郎にハマり、ビートルズやオアシスのロックに行き、そこからどんどん派生していった。周りのクラスメイトとはあまり話が合わず、高校の担任の先生くらいが分かってくれる感じだった。でも不思議なもので、ツイッターには僕みたいな人はざらにいて、僕より年下の子が60年代の音楽を掘り下げていたりモッズの服を着ていたりしていて、面白い。そして、ぴたっと好みが合う人が現れる。この「ぴたっ」感は、恍惚とも歓喜とも説明のつかない妙なもので、とにかく嬉しい。もちろん知らない音楽を教えてもらって勉強するのも楽しいけれど、やっぱり「わかる!」の喜びはとてつもないものだ。

 音楽にしろ本にしろ、別々の場所で吸っていた空気が誰かも同じように味わっていたのだと後になってわかる。だから、風を捜して肺をいっぱいにしつづけようっと。その風が誰かを連れてきてくれるだろうから。

 (追記)最近はユニコーンとか奥田民生さんをよく聴いてます。いいよね。 

自転車泥棒

自転車泥棒

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かなりむつかしい問題

 昔から、登場人物の心情を問う問題が苦手だった。よくあるでしょ、台詞とかに線が引かれていて、このときの主人公の心情はどのようなものか、ってやつ。選択肢があるならまだしも「〇〇字以内で記述しなさい」という問題は本当に頭を抱えた。だから、大学受験もセンター試験でよかったなと思う。

 一番記憶に残っているのは、高校二年生のとき。現代文の授業で、川上弘美さんの「神様2011」を読んだ。どのような物語かざっくりと説明すると「くま(あの熊です)と私が震災後の街を散歩する」という内容で、その中のシーンに「くまが蜜柑の皮を私に背を向けて食べる」というのがある。たしか蜜柑の皮だったと思う。そして、そこに線が引かれ、「どうしてくまは私に隠れてこっそり食べたのか」と問題を出された。僕は、正直意味が分からなかった。だって、くまじゃないもの。正解は「人間なら食べない蜜柑の皮を食べるのが恥ずかしかったから」だった。「くま」の性格みたいなものを理解していたら分かる問題だけど、僕はものすごく勘違いして、「食べている姿を見て私が怖がらないようにと思ったから」と書いて先生に苦笑いされてしまった。たしかにそうですよね。こんなに的外れな答えはない。

 心情を問う問題ができないことは、人の気持ちがわからないということと同じだと思うから、勝手に落ち込んでた。こちらはそんな気はないのにいつの間にか人を傷つけているときがある。この間友達とカラオケに行ったんだけど、その子は自分を音痴だと思っていて、僕とカラオケに行くのもちょっと嫌だったみたいだ。彼が歌う曲はラッドウィンプスやポルノ、バンプとどれも難しい曲でしかもキーがどれも高かった。だから僕は、「自分のキーに合った曲にした方がいいと思うよ」と‘‘アドバイス’’した。僕は‘‘アドバイス’’のつもりだったんだけど、その子は「上から目線でマウント取るのやめた方がいいよ」と僕に言った。いや、この発言以外にもいろいろと彼を苛立たせるものがあったかもしれない。でも全部無意識だったし悪意はないのに、あんまりよくない感じになってしまった。うーん、やっぱりむつかしいなあ。

 例えばここに書いている言葉を読んで「これを書いている人はこういう人なんだろう」と予測する。でも、前にも言ったとおり、これは「手紙を瓶に詰めて海に投げている」のと同じなんです。手紙を書くのに粗暴な言葉を使ったりはしないだろうから、きっとそんなに悪い人には見えないかもしれないけど、自然に使った僕の言葉が人をイラつかせてしまわないかと心配ではある。人の気持ちがわからないという問題を抱えながら、毎日毎日言葉をひねり出すんだろうな(相手のことをまったく考えないってことじゃないよ)。

みんなって誰だ!

 大学生になって二年目だけど、帰省するとなぜか大学受験の話になってしまう。「いやあ、たくさん落ちたらしいよ」「もしあの大学を受験してたらどうなってたんだろうね」とか、ついこの間のことのように話し合う。故郷の大学を選んでいたら(そっちは記述式のテストでした)いろいろ違ってたろうなあ。でも一人暮らしを選んで、故郷を離れたのは間違いではないように思う。それは、前に話したかな。

 高校三年生の人の何人かはわかるかもだけど、模試ばっかりじゃないですか。ほとんど毎週模試があって、でも月曜は休みにならなくって「なんでやねん」と思ってた。しかもだんだん終わる時間が遅くなって、あー真っ暗になっちゃったと空を見て自己採点して先生に見てもらって、「僕って馬鹿だなあ」と思いながら暗ーい道を帰って...ってほとんど苦労自慢になっちゃったな。こんなに語っておいてあれですけど、「俺も昔はこんなにがんばったんだからさ、お前も頑張れよ」って言うおっさんにはなりたくはないなあ。

 なんでかというと、頑張らなきゃって思うのがいやだから。今ならわかるけど、模試って単に会社が稼ぎたいだけでしょ。そのせいで土曜を潰されてたんだからどうしようもない。でもみんながやるんだったら、僕もやらないといけないと思う。そういう「みんながやってるから」「自分だけやらないのはみんなに迷惑だ」というあの空気は改めて考えたらとっても変だった。それって大人の社会にもあると思う。「みんな残業してるから僕も...」とか。きっとそういう風にして、ほんとはしなくてもよいことも「なんでかはしらないけどやらないといけない」みたいになって、社会全体がしんどくなっているんじゃないかな。全然関係ない話だけど、着物が敷居が高いのって誰かが「着物はこうでなければならない」って考えてるのが広まって、前は普段着だったものがどんどん着づらいものになってしまった。きっとそういうもので、誰かの「こうしなきゃ」が集団の中で常識化してしまって、いろんな物事のハードルが上がってる気がする。

 集団ってのに違和感を抱いたのは、学校のテストの番数についていろいろ思い始めてからだ。あれって、一つの学校の、一つの学年の中でどれだけ賢いかって話でしょ?それだけでクラスに上下関係ができ始めるけど、もっと広い目線から見たら、案外そんなに差はない。でもクラスの中だといかにも自分が馬鹿であの人は賢そうに見える。狭い世界のあれこれで自分を悲観したり苦労するのはちょっとばかばかしいなと思いました。

 「模試ぐらい休んでいいんだよ!」って、なかなか大声で言うには勇気が必要ですけど、ほとんどそう考えてます。充分休んでから行こう~、いちいち道草していこう~。以上!

広場の効き目

 久しぶりに自分が住んでいる町に戻ってきたら、商店街の風景が変わっていた。新しい店ができていたり、この間までやっていた店が閉店していたり。おいしそうな本場讃岐うどんのお店があって、ついぶらっと寄ってしまいそうになった。あと、何かのイベントなのか、広場のようなところに踊り子っぽい人がいて、人だかりができていた。先週ここを通ったときにもまた違うイベントが催されていたから、きっとこの広場は人々の憩いの場になっているんだろう。

 先日、近所にブックオフがオープンして、暇だったので寄ってみたらすごい数の人がいて驚いた。この人たちは、どこから来たのだろう。そして普段は何をしていたのだろう。もしかしたら、ブックオフがオープンしたから、久しぶりに外に出たという人もいるかもしれない。だって、外に出なくてもなんでも済んじゃうでしょう。経済のことはよくわからないけれど、ネットでなんでもできちゃうというのは経済的によくない気がする。外に出たらなんだかんだお金を使ってしまうけれど、それでお金の循環が生まれているのだとしたら、悪い気もしない。

 でも正直言って、お金の面は別にどうだっていい。僕が面白いのは、例えばイベントがあると人がどっと集まったり、ある建造物が文化遺産に選ばれるとそこを訪れる人が増えたりすることだ。なんていうか、人に「ここ行ってみたいなあ」と思わせる何かにどきどきする。どこかに行くのってかなりエネルギーがいるけれど、それでも行ってみたいと思わせるのはむつかしい。

 ずうっと僕が感じていることなんですが、「ぶらっと落ち着ける場所」って案外ない。喫茶店に入っても、お客さんがあんまりいたら早く出なきゃと思ってしまうし、そもそもちょっと座れる場所自体あまりない気がしているのだけど、僕の住んでいる町だけかな。こう書いていて思い出した。あるとき散歩していて、おじさんたちがお酒を飲みながら将棋をさしているのを見かけてなんだかいいなあと思った。おじさんたちがぶらっと集まって何かしている、ってのがよかったのかもしれない。今の社会は割と「おひとり様用」に作り替えられている感じがするけど、「何人でもいつでもどうぞ」みたいな気軽さが欲しいなあ。

 だからこそ、広場って大事だと思う。あの雑なくらいに開かれた空間って、わかりづらいけど必要じゃないかな。僕の住んでいる町でも、本当は広場に使うはずだった場所を、市長が「もったいないから」とそこに何かを建てようとしている。広場だったらよかったのに。そこに生まれるはずだった人の流れ、繋がり。子供たちが走り回る風景。

ぽこぽこと、思考する(3)

 ・父と話すことがほとんどない。大事な連絡も、母を介してしている。もともと父は無口なほうで、冗談なんかもあまり言わない。あと、父とは40歳くらい離れているのも理由の一つかもしれない。

 今週の木曜日から今日まで帰省していて、父といつも以上に話をした。うーん、質問したいことがいろいろと溜まっていたのかもしれない。ずっと気になっていたのは祖父のことだった。祖父は僕が生まれるずっと前に亡くなってしまっていたから、どんな人だったのか改めて聞いてみたのだけど、ほんとうに器用な人だったようだ。字や絵も上手で、踊りもできたらしい。あと、「幸せはたぶんどこででも感じることができるんじゃないか」という、なんでかわからないがそんな話も出た。同じ学生の中に、発展途上国の支援をしたいという人がいる。そんな人たちが語る発展途上国での暮らしは、いかにも悲惨で、毎日つらそうな絵が浮かぶけれど、きっとそんな暮らしにも幸せはあるような気がしているのだ。そう話したら、父さんも頷いてくれた。

 僕の両親は中卒で、ずうっと仕事をしながら僕を育て上げてくれたのだけど、僕を大学まで行かせてくれたのは本当に有難いことだと改めて思った。僕が大学に行ってなぜ学びが大事かを知っておくことで、もし僕に家族ができたときにそれを教えてあげられるだろうし、そうやって未来が受け継がれたらきっと社会全体がよくなる気がしている。これが、帰省して思ったあれこれです。

 ・最近気になっている映画、『君の名前で僕を呼んで』。四国では愛媛県しか上映していないので歯がゆい気持ちを抱えている。でもツイッターでいろいろ感想を聞いて、作品のすばらしさを間接的に味わってます。

 高校生のときの友達に腐女子がいた。それで初めて知ったのだけど、腐女子にも好き嫌いがあって、男同士がラブラブしていたらなんでもいいってわけじゃない。まあ、そうですよね。しかし、自分の知らないものに対してはどうしても偏見が生じてしまいがちで、それで困る人たちがいる。同性愛者の方々に対する偏見もあるだろう。普通に考えて、へトロにも好みがいろいろあるんだから同性愛者の人たちもそうなのは当たり前なのに、どうも勘違いしやすい。でもこの作品を観たらきっと、性別というものを遥かに越えた、瑞々しい恋心を感じられるような気がしている。まだ観たことないけど。

 最近、同性愛の小説を探しているけど、案外ないものですね。ネットで調べてみると『潮騒の少年』や『フロント・ランナー』という名前が出てきた。今まで読んだ本の中で同性愛っぽいのはなかったからなあ。『君の名前で僕を呼んで』の原作本が出ているからそれを読んでみたいところです。

 

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

君の名前で僕を呼んで (マグノリアブックス)

 

 

友愛の修辞法

 友達とも恋人とも言い難い関係の人っていませんか?友達以上恋人未満っていうのかな。今日、SMAPの映像をたくさん見ていて、なんだかそういうものを感じていた。二十年近く一緒にやってこられたのって、きっと友達以上の何かがあったからなんだろうなあ。いろいろ見ていてすごくよかったと感じていたのは、クリスマスイブに五人が集まって特に何かをするとか決めずにぐだぐだ過ごしていたものだ。自然と仲の良さがにじみ出ていて、すっかりほっこりしてしまった。

 僕は明日バスに乗って帰省するんですけど、一番大事な友人と会うのってやっぱりウキウキするものだ。よく電話していたときに、ときどき「好き」だと言ったりしたけど、「好き」とはなんだか違うような気もしている。もちろん好きには違いないんだけど、好きでは包括できないものがあってだな...。小沢健二さんの歌に「シナモン(都市と家庭)」があって、「友愛の修辞法は難しい 恋文よりも高等で」という歌詞が出てきて「まさにそれ!」と思った。恋人に「好き」や「愛してる」と言うのはある程度決まったことというか、そう言うほかに何も言葉がない気がしている。だって「好き」で結ばれた仲だと思うから。でもこの友人に対しては、「好き」という尺度では語れないものがある。例えば、僕は家族に「好き」とか「嫌い」とかいう感情を持っていない。なぜかというと、どう思おうと縁が切れないと分かっているからです。それと同じで、この人とはずっと付き合っていくだろうなと感じる人には「好き」「嫌い」の次元を越えた感情を抱く。

 その友達のことは、前にも書いたかな?結構登場しているから知っている人もいるかもしれないが、もう少し話しておこうかな。彼とは高二のときに同じクラスになったけど、実は僕の方は高一のときから一方的に知っていて気になっていた。というより、こいつとは仲良くなれそうだという確信があった(そういうのってありません?)。話すきっかけになったのはとある授業で一緒にパソコン室に行ったときで、本当はまじめに調べなきゃいけないのに二人ともふざけて、アマゾンのサイトを見たりYoutubeを開いて危うく動画を再生しそうになって笑ったりしたのだ。受験期も一緒に過ごしていた戦友で、そういえばいまだに喧嘩をしたことがない。お互いあんまり怒らないからかな。

 そんな彼になんて言っていいのかわからないけれど、たぶん「また会おうな」とかが一番ちょうどいいような気がする。僕が思う最もよい関係は「淋しいから会う」じゃなく「会いたいから会う」だ。ちなみに小沢健二さんの新曲「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」にはこんな歌詞がある。「手を握って 友よ優しく」。

 

 

楽しさを寝かせよう

 僕の大学は、どうやら学業が‘‘ほんとうに’’好きなようで、5月1、2日と授業が入っている。たぶん何人かは「そんなの知るかっ」と帰省したり恋人とデートしたりすると思うけど、僕は一応全部受けるつもりです。恋人いないからね。

 長い人で9連休ぐらいあるこのゴールデンウィークも、僕は4連休です。でも結構楽しみで、久しぶりに友人に会ったり家族と過ごしたり、ああしたいこうしたいみたいな妄想を夜な夜な考えている。でも薄々わかってはいるけれど、どうせほんとに実現するのって妄想の半分くらいだし、妄想ほどうまくはいかなかったり思ってたほど楽しくないものだ。宝くじを買って「どこそこに旅行に行ってあれこれを食べて...」とプランを立てても現実は300円くらいしか当たらないのと同じだ。

 その旅行も、行く前の日が一番楽しいような気がする。ポール・マッカートニービートルズ解散後結成したバンド、ウイングスのアルバムに『Band On The Run』という名盤がある。当時ポールは、ナイジェリアのラゴスで常夏のビーチを楽しみながらレコーディングしようと考えていた。しかし、ラゴスへ行くまでに2人のメンバーが脱退。現地はちょうど雨季でビーチどころの話ではない。しかも、ギャングに襲われてデモテープやカメラを奪われてしまった。こんな惨事がつづいた後で歴史に残るアルバムは完成したわけだけど、旅行って何があるか分からない。まさか旅行に行く前に「ギャングに襲われるかも...」なんて、ポールは想像してなかったはずだ。

 僕の父親は、僕の母と出会う前にも家庭があって、子どももいる。つまり、腹違いの姉がいるということですね。父は一戸建ての家を建てたそうで、ある日「キッチンとかリビングとかをどうするか考えているときが一番楽しかった」と言っていた。やっぱりそういうものなんだなあ。どうなりうるか分からないからこそどきどきするし、「こうなった」では、楽しさは失せてしまう。

 つまり、こうやって「友達とカラオケに行ったらこれ歌おう」とか「あそこでこれを食べよう」と思案している時間は、ある意味で一番幸福な時間だ。でもよく考えたら、こんな「楽しさを寝かしている」時間のために、僕らは生きているようなものじゃないか。「今週のミュージックステーションにあの人でるから頑張ろう!」とかってよくある。「今週の金曜ロードショージブリじゃん!」とかも。だから、週末に何かわくわくさせてくれる人は、たぶんびっくりするぐらいの人数を救っていると思う。そうしてじっくり寝かした楽しさを味わって、また来週、再来週と、僕らはなんとかやっていけるのだろう。ゴールデンウィーク、あなたは何をしますか。