一人ぼっち時間

 一人の時間が好きだと、あまり声高に言えない。それをしてしまうと、なんだかやせ我慢をしている、本当は淋しいのに懸命に孤独を肯定しようとしていると思われそうだからだ。まあ何でもいい。昔から一人で遊んでいたし、ぼおっと色んなことを考えてきた。僕の中には、僕にしか分からない世界があるし、他の人にはどうしても見せられない部分がある。誰かと密な関係になっておしゃべりをしているときも、一人が好きでよかったと思った。しばしば、自分一人で掘り進めていた穴が他の穴と繋がるときがあって、それが感慨深いのだ。

 作者の手を離れて世に出た作品はすべて、受け手のものになる。だから作者がどう考えたとかは別に気にしなくてもいいのだけど、どうしても作られる過程を想像する。例えば音楽は(もちろんセッションなどから生まれることもあるけど)、独りぼっちで作られる。どんなに友達が沢山いる人でも、曲を考えるときは「一人」に還る。そうした孤独な中から生まれたものがより放たれた世界へ旅立っていく情景を思うと、曲を聴く姿勢が変わる。これは既にどこかで述べたものだけど、小沢健二さんの代表曲「ラブリー」は、そのポップな曲調とは裏腹に、とても淋しい時期に作られたのだそうだ。淋しさから出発して、明るい舞台へと着地する。このことを考えるだけで、小沢さんが何を大事にして作詞しているのか、少しわかった気になれる。

 クラスメイトに囲まれてワイワイと盛り上がっているときでも、孤独を感じるときがあった。なぜかはわからないけれど、このグループに本当に属せているのか?という疑問がどこかにあった。他の人には、部活なんかの別のグループがある。だからどれだけ人と親密になっても、完全には同じになれないことへのもどかしさがあったのかな。

 「自分は周りとどこか違う人間なんじゃないか」と思うときもあった。そしてそれが少しだけ自分のアイデンティティのように感じられるときもあった。だけど中学一年生のときに読んだ太宰治の『人間失格』で、それをきれいに粉砕された。「演じているのはお前だけじゃない、そしてそんな演技は簡単にバレるんだからな」と言われたような気がして、ぞっとした。「自分はもしかしたら特別なんじゃないかと期待しながら、他人と同じでありたい」という矛盾をきっちり丸々指摘されてしまって、僕は完全に『人間失格』のあるあるにハマっていった。「これは僕のことだ...」。

 一人の時間は好きだけど、自分自身のことはあまり考えない。町や、家の周り、学校で流れていく景色や季節のことを考える方が楽しくなった。それにしても、未だに「一人」と「独り」がうまく使い分けられない。どうすればいいのやら。