変わってるふりをしている

 『カウボーイ・ビバップ』というアニメを観ている。98年から放送されていた作品で、山寺宏一さんや石塚運昇さん、林原めぐみさんなどすごい声優さんばかり出ている。何より、物語が渋くてダンディーで、痺れそうになる。カウボーイのお話なのにSFアニメだという意味不明さも、見ていくうちに虜になっていく。面白いなあと思いながらも、半分ぐらいは内容が分かっていない。それでもいいかなあという気がしている。

 こういうアニメを観ているのは、もちろん内容が素晴らしいからだけど、「きっと同年代で観ている人はいないだろう」というのも理由の一つだ。誰も知らないだろうという優越感というか、そんなものを味わっている(いや、これだけの名作、知っている人は山ほどいるに違いない)。『AKIRA』を観たときも、『パプリカ』を観たときもそうだった。これは自分だけの体験なんだという喜びは、孤独ではあったけど刺激的なものだった。しかし、ツイッターでたくさんの人と関わるようになって「自分の知識はまだまだだなあ」と痛感することばかりだ。僕より年下の子がビートルズや60年代の音楽を好んで聴いているのに驚く。

 中学一年生で太宰治の『人間失格』を読んでいるとき、やっぱり優越感があった。読者がよく覚える「これは僕のことを書いてるんだ...」という衝撃もありながら、「クラスの隅で太宰治を読む」その行為に浸っていた。淫売婦とか分からない言葉もあったのに、ざっと読み終えてしまった。それでも、高二になって読み返すと分かってくるところもあって、中一でしたことは別に無駄じゃなかったんだなと思ったりした。それに、高校のクラスメイトである、女の子が太宰の作品が好きらしくて、その話題を少しでも共有できたのは嬉しかった。

 今は村上春樹さんの『ノルウェイの森』を英語版で読んでいる。割と簡単な英語に翻訳されているし、分からない単語も飛ばせばなんとかなりそうだけど、いちいち止まって意味を確認したくなる。だから読み進めるスピードはカタツムリより遅い気がする。英語はやっぱりむつかしい。まあ、楽しい部分もある。日本語と英語を読み比べるとそれなりの発見がある。それに、他の人はやっていないだろうという例の喜びもある。

 所属しているゼミの教授と話しているときに、僕がポール・オースターの名前を出したら「よく知ってますね」と言われた。高校の修学旅行でフィッツジェラルドの『若者はみな悲しい』を買ったときも、同じようなことがあった。僕は「みんな知らないだろうなあ、これ」というスネ夫的な自慢がしたかっただけで、どちらも詳しくない。だけど、「分からない」ということに後ろめたさを感じているうちは、なんとか前へ進めるように感じている。知ったかぶりから始まることも、一つくらいはあるはずだ。

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