NIGHT SCRAPS

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だらだら坂

 静かな空気の中に、小さなガラス片が混じっているような本。本棚から懐かしげに手に取ったのは、向田邦子さんの『思い出トランプ』だ。200ページに13編の物語が収められている。一つ一つが短いため、あっという間に読み終えられる。15分のドラマを見ている感覚に近い。

 一番記憶に残っているのは、「だらだら坂」だ。まず、タイトルがなぜか好きだ。だらだら坂と聞くだけで、物語がぽわぁんと浮かんで来るような気がする。向田邦子さんの文章の特徴は、まず一行目で惹かれる。ほんの短い言葉で、物語の中に手招きされる。「マンションの扉を叩くのは、とんとんとふたつずつ三回と決めてあった」。「だらだら坂」は、庄治が浮気相手であるトミ子の部屋を訪ねるところから始まる。トミ子は、「はたちという若さと、色が白いだけが取柄のずどんとした」女性である。庄治は、彼女の従順さと気を遣わなくていい気楽さを都合よく思っていた。

 彼女の住むマンションは庄治が探したもので、だらだらとした坂を上った先にある。庄治は毎回、坂の手前でタクシーを止めさせて、タバコ屋で煙草を一つ買い、そこからゆっくりと歩いて部屋に着く。たぶん、時間をかけることも楽しみの一つだったんだと思う。

 読み終えて、この話は何を描いているのかと考えたときに、女らしさに安らいでいた男の憂慮じゃないかと思った。自分にとって都合が良かった女が、そうじゃなくなっていく虚しさ。楽しさのためにじっくり歩いていた坂が、重くしんどいものになる。しかし、一方で、これが女性なんだと気づく。「気取った調子で長話をしている女房」の元へ帰る道すがら、あの坂の上から見えたのは、蜜柑色の夕焼けに染まる町並みだった。なんだかそこに、ぽっとした温もりを感じる。物語はゆるりと進むけれど、その中での庄治の心の機微は鋭く感じられる。

 あと、別のお話だが「はめ殺し窓」に登場する主人公の両親がなんだか親近感が湧いてくる。父は痩せて貧相、母はたっぷりとしている。自分の親もそんな感じだ。僕の父は自分の体の調子がちょっとでもおかしいと「風邪かな?」と言って薬を飲む。そんな父の姿を見て母は「男は弱いわ」とこぼす。そんな二人の馴れ初めもドラマにできそうなのだが、長くなってしまったのでまた別の機会に。『思い出トランプ』、おすすめなのでぜひ。https://www.amazon.co.jp/dp/410129402X/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_S0rMBbJ4KW736