化粧直し

 今、川上未映子さんが訳された樋口一葉の「たけくらべ」を読んでいる。とても不思議な気分になる。昔の情緒はもちろんあるのだけど、文体は現代風だからとても読みやすい。それはまるで、村上春樹が日本語訳をしたアメリカ小説を読んでいるのと同じ感じだ。村上春樹の文体で訳されているから、アメリカの話なのにどこか親しみやすいというか、香りが彼の小説のものなのだ。このように、読んでいると面白さが現れてくる。たぶん、「こんなものは「たけくらべ」じゃあない!」と本を投げ捨てる人もいるかもしれない。これは例えだけど、今までずっと「いまはむかし...」と読んでいたものが突然「この間さあ...」となってしまったら、なんだか味気なく感じる人もいて当然だ。当時の文体にあった流れや風味を、そっくりそのまま今の言葉に直すなんて無理難題だし、かといって「むつかしいまま読みなさい」というのも読者としてつらい。だから今回のこの訳は本当に有難いのだ。「こりゃだめだ、あらすじ読もう」よりも簡単な文だが読める方が何倍も良い気がする。

 昔の文を今の言葉に直すことのむつかしさは、お化粧に似ている気がする。ずっと「これが美しいんだ」とされてきたメイクを、「いや、今ではこんな風に綺麗にできますよ」とレコメンドする。よっぽどそれが美しくなければ、「いやはや、矢張りこちらのほうがいいなあ」と素通りをされてしまう。しかしながら、樋口一葉の「たけくらべ」を原文のまま読んですんなり理解できる人が今の社会にどれくらいいるんだろう。僕にはほぼ不可能だと思う。まあ読める人がいたとしても「知識が豊富なんですねえ」と、それくらいのことしか思わないけれど。

 今の小説の文体は夏目漱石の文体であるらしい。だけど先程挙げた村上春樹などは独自の文体を持っていて、それが彼らの評価を得ている一つの要因になっているはずだ。文体は、(何も考えていないのであれば)今まで読んできた文章の文体と同じように出来上がる。今主流になっている文体が完成されるまで、いったいどれほどの苦労があったのだろう。そして「ここ!」という着地点を見つけたときの気持ちよさはどれほどだったろう。でも、僕はどんどん新しい文体が発見されてほしいと思う。川上未映子さんの『ウィステリアと三人の女たち』を読んだとき、「あ、この人は日本文学を脱したなあ」と感じた。その方が訳された「たけくらべ」、きっと100年前の美しさがアップデートされているだろうと期待しながら読んでいる。一葉、双葉...。 

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