たそがれ

 一日の中で夕方から夜に差し掛かる時間が一番好きだ。紅色と青が入り混じっている空を見ると、ついうっとりする。雲一つない完璧な空もいい感じだけど、夕暮れ時の空ほどロマンチックなものもあんまりないように思う。学校の帰り道、川にかかる橋を渡るときに川面に写る夕空をとてもきれいだと思った、そんな記憶がふわっと現れる。

 夕方を表す言葉「黄昏」は、「人生の終わりごろ」という意味も含んでいる。美しい言葉の表現だと思うけど、この例えを借りるのならば、僕は一度、人の「夜」に触れたことがある。中学三年生のときだ。

 僕は父方の祖母がどんな人だったのかまったく知らない。両親が故郷の愛媛を離れて暮らし始めたため(これにはかくかくしかじかがあって...)、その後生まれた僕は親戚とほとんど交流がなく今に至っている。ときどき愛媛に帰ると、なぜか彼らの今治弁を懐かしく感じた。なぜだろう。で、その「ときどき」の一つが、祖母が亡くなったときだった。ここで僕はとても貴重な経験をさせてもらった。僕ら家族は、祖母が眠る棺桶のある部屋で夜を過ごしたのだ。布団の中でふと横を向くと、決して消してはならないというロウソクの火がゆらゆら揺れていた。すぐそこにたたずむ「夜」は実に不可思議に、でも圧倒的な存在感でそこにあった。正直、あんまり眠れなかった。

 初めてのお通夜もお葬式も、両親のするがままにするだけで、ただただ緊張していた。お通夜の後、僕よりも大きなお兄さんが大泣きしていたり、まだ小さな女の子が訳も分からずぽかんとしていたり、いろんな景色が広がっていた。めったに話すことのない親戚とも少しばかり言葉を交わして、一日一日あっという間に過ぎていった。はっきり言って、祖母の「夜」に触れたことで僕にどのような変化があったのかは説明できないけれど、なにか世界をぐるりと変えてしまうくらいのパワーを感じるのだ。お化粧をしてもらった祖母を見ると、なんだかすっと起き上がって「やあ」と言いそうだけど、永遠にこの人は言葉を発さないんだ...と、それだけが確かだった。

 僕らは一日一日、まっすぐに「夜」へと突き進んでいるけれど、夕方ぐらいはきれいでいてほしい。真っ暗になっても、星ぐらい光っていてほしい。愛媛から戻り、学校の日記帳みたいなものに祖母のことを書いた。もうここにはいないけれど、いないという事実は確実にここに「いる」し、祖母は行きたい場所へ自由に行っていると思うのだ。天国とか地獄とか関係なしに。