なぜ書くのか

 中学一年のときたまたま手に取った本が、今も記憶の中に鮮烈に残っている。太宰治の『人間失格』だ。最初、訳が分からなかった。今まで読んできた本とは明らかに感触が違う。言葉の意味が判然としない、知らない部分がいくつもあった。それでも僕は最後のページまで読んでみた。高二のときふたたび読んでみて、いかにこの小説が奇妙か、その姿をちらりと見た気がした。

 道化をしているとき、すごく楽になれた。例えるならお酒を飲むみたいなものだ。その言葉の通り、役を演じている感覚で、まるで自分が人の良い人間であるように見せている。じゃあ、本当の自分は?探してみても、それは元からないのだから仕方ない。

 時々、ほんとうに悲しい曲を聴きたくなる。三か月かに一度くらいに周期的に来て、洗脳された人のように悲しい曲を聴きまくってそのムードに浸る。なんだか鎧を脱いで一息ついているみたいだ。今日はオアシスの曲が、すごくいい。オアシスやスピッツの良さは、かっこいいのにどこか郷愁感が残ってるところな気がするなあ。

 今日もこうやって、直接人に話すのは迷惑だからブログという形で発散させている。もしかしたら、誰にも見られなくたってこうして残しているかもしれない。中学や高校の時だって、何十冊ノートを消費してきただろう。そういう感覚かもしれない。ふと、なんで俺こんなの書いてるんだろ、と悲しくなるときはあるが、言葉に囚われてしまったのか、今のところやめる気配はない。

 半年ほど前、言葉というものが嫌な時期があって、ヒトは言葉を発見してしまったから世界中がいがみ合ったり喧騒が起こったりしているんだ、と結構マジで考えていた。情けない話だが、それは僕の失恋が大きな原因だった。バカな話だ。一人に振られたぐらいで。ただ何か月たってもその傷は消えそうもなかったので、ツイートしてみた。なんでしようと思ったのかはわからない。同情してほしかったのかもしれない。するとフォロワーさんからリプが飛んできて、今の時代にそれだけ強い感情を持てることは素敵だと思います、という内容だった。こんなにも醜い思いを「素敵」だと言ってくれたのは驚きだったし、気がつけばその言葉に安堵している自分がいた。あれだけ悩んでいたのが一瞬で浄化されるなんて。

 正直、こんなにまとまりのない文章はない。道化も、もしやまだしているかも。しかし、言葉を書くことでしか生きていけないのは、はっきりしている。長文失礼しました。