NIGHT SCRAPS

life, solitude, words

恋しくて

 甘美なまどろみに似た時間。そのぼんやりとした気配の中で、いくつかの思い出を拾い集めることができる。スマホのフォルダからすべて消えても、今のところはまだ、油よごれみたいにしぶとく残っている。春へと移り変わる前の、頬を突く冷たい風。駅前で待ち合わせて何をするでもなく過ごした日々。行き交う人をときどき目で追いながら、僕のオチのない話に耳を傾けてくれたやさしさ。

 君とよく行ったあのデパート、来年閉店するらしい。仕方ないことだし、心のどこかではどうでもいいって思ってる。人と同じように、町も新陳代謝をくり返して健やかであり続けるから。だけど、僕の手垢まみれの景色がそうやって簡単に過ぎ去っていくことにうろたえもした。一人きりの部屋で、ちょっとだけ時空を超えた。水彩画のなかを泳ぐ幽霊のように。つま先に力を入れて、次から次へ季節を飛ぶ。愛おしいこともばからしいことも同じことだって気づく。そして最後には、自分の部屋に着地する。

 君の言葉の一つ一つが僕の心を弾ませ、わざと触れた肩と肩が恋しさを募らせた。日曜日の朝のささやかな魔法ができるだけ持続することを願った。町を出てしばらくは、そんなことのすべてが栞となって、大事な記憶に挟まっていた。夜になればすぐ開いて読みふけった。暗闇に目が慣れて、天井や壁がうっすら見えてくるまで。

 今まで大切にしていたものが遠ざかっていくときのさみしさは、たぶんこれからも出会うだろう。君とそばにいたときの熱が名残って、やりきれない夜に侵される。だって今でも思い出しちゃう。3月のとある日の夕方に君と交わした抱擁。微笑を浮かべて一緒に歩いた帰り道。そういう記憶に呑み込まれると、もう人を(嫌になるくらい)知ることなどやめようと思う。だけど新陳代謝はつづく。また新しい恋しさへと、情けなくても歩みを進めなきゃいけない。ときどき思い出話をみっともなく語りながら。

 甘美なまどろみに似た時間。そのぼんやりとした気配の中に、君がいる。もう出会うはずのない人。だけど君としか交わせなかったいろいろは、今も栞になって生きている。