NIGHT SCRAPS

夜をつらつら書き連ねるブログ

ボディー・ブロー

 ときどき、予期しない所からボディーブローを食らう。本当に殴られるとかそういうことでは決してなく、心をぐっと鷲掴みされるみたいなことだ。それをちょっと比喩で言っているのだ。この間もツイッター深沢七郎さんのことを知って、一気に興味を持ってしまい、いろいろと調べたり本を図書館で借りたりした。今はやや忙しくてそんなに読めていないけど、『楢山節考』は数ページ読むだけで「ああ面白い」と思う。

 よくネットへの批判として、「恣意的な情報ばかり集めやすい」というのがある。自分に都合のいいものばかり見るから、どうしても見方が極端になってしまうのだ、と。確かによく分かる。あと、ネットの世界はもともと狭くて、現実世界とのギャップは回避できない。「これは批判が噴出するだろうな」と思ったことでも、透明人間が通ったみたいに何にも起こらず終わったし、自分がずいぶん恣意的な世界に棲みついていることはたびたび痛感する。

 それでも、誰かが胸の内に潜ませていたものをそっと見せてくれるときがある。普通に生きていたらとても知ることがなかったものだ。そうして、木立に枝葉が一つ一つと増え、そこからまた枝が広がっていく。確かに身勝手に手繰ったものかもしれないけれど、ツイッターはそういう意味ですごく便利だと思う。なぜなら、これは会話だけじゃなく独り言にも向いているからだ。相手を想定して口をつぐむことなく、好きなことを割と自由に話すことができる。誰かの独り言をたどるうちに、とんでもないボディーブローに出会う。一度受けると、もう二度と元には戻れないブローだってある。

 ...親と話していると、デジタル社会が進みすぎることの苦しさを感じる。なんだか勝手にデジタル機器が普及して、それについていくことを半ば強制される。今はなんとかついていけている僕でも、歳を取るとどうなるかわからない。デジタル社会から排除された自分を思うと、かなり切ない。ボディーブローの感触も忘れてしまって、ただただ「ついていけなさ」を味わう。だから今のうちに、と蓄えられるだけ蓄えるのだ。

 今、僕が一番食らっているのが「暮らす」というボディーブローだ。深沢七郎もそうだけど、生活のことをしっかり考えている人にふうっと誘われる。吉岡里帆さんが出汁を取るにちゃんと昆布や鰹節から取っているのを知って、偉いなあと思ってしまった。僕はサボって、粉瘤のものを使っている。そういう小さいところからちゃんとしないといけないんだろうなあ。まだまだ子供の季節だ。