NIGHT SCRAPS

夜をつらつら書き連ねるブログ

恐怖はかんたん

 ミスタードーナツでコーヒを啜りながら、僕は考えた。指はジョージ・オーウェルの『一九八四年』を捲っている。...恐怖とはなんだろう。恐怖について考え始めて一番最初に思い浮かんだのは、子育てのことだ。「食べ物を残したらもったいないお化けが出るよ」「勉強は子供の義務だ、勉強しないと将来ばかにされるよ」。人が一番敏感に感じ取りやすいのは、おそらく恐れだと思う。たぶん。

 ところで、NHKの「SONGS」に出演した小沢健二さんが、ある朗読をした。

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 ここで話された自動販売機の話が頭に残っていた。小沢さんは、日本にしか自動販売機が置かれていないことに対して「驚くべき」という表現しかしていない。驚くほど素晴らしいとも、驚くほど奇妙とも言っていない。今の僕は、どちらかというと奇妙な気がしている。たとえば、「こんなところ誰が来るんだろう」という場所にも自動販売機は佇んでいるけれど、たぶん中のお金が盗まれるなんてそうそうない。そこには秩序や、恐怖が流れている。地域に住むおっさんおばさんに対する恐怖や、もっとあやふやな〈世間〉への恐怖。田舎に住んでいると、なんとなくでも〈世間〉というのが根付いているのを感じる。夫婦は女性が男性の苗字に変わる、とか。どこかの誰かさんが考えた「ふつう」が〈世間〉を作り出し、それに反することに人びとは恐怖を覚える。そして〈世間〉に適応するように成長していく。はて、自販機泥棒が現れないのは「正常」なんだろうか。

 街を歩けばどこにも監視カメラが設置されてある。タクシーの中や、お店の中にも。カメラはどんどん小さくなって、目を細めないと分からないくらいになっている。僕らはいつも「見られている」という意識をもって行動する。それが起動していなくても、カメラの存在をちらりと確認しただけで、どこか背筋を伸ばしてしまう。見られている(かもしれない)という意識は、僕らを規制している。良くも悪くも。誰かの視線は今のあなたに向けられているかもしれないし、向けられていないかもしれない。

 僕がこうやって恐怖について語っているのも、何かしらの恐怖にそそのかされているからかもしれない。しかし、世の中に沢山の恐怖があるのはたぶん事実だ。原発に対する恐怖からたくさんのデマや風評被害を生んだし、日本が先進国でないことへの恐怖から「世界からこんなに称賛されている日本」みたいな安上がりな番組がゴールデンで流れている。僕や彼らが真剣な顔して訴えているあれこれは、本当に自分たちの心から純粋に溢れ出たものなのだろうか。不特定多数の〈世間〉が歩いてきた道を蟻のようにたどっているだけな気がする。それでも、考えずにはいられない。それは狭いお店に入ったときの気分と似ている。狭い本屋さんに一度入ってしまうと、なにか買わないとなかなか出て行きづらい。蛸壺のように、僕は閉じ込められる。

 はあ、店員さんにコーヒーをお代わりしてもらったのはいいけれど、ブラックを飲んでいると頭が痛くなってきた。本を閉じ、イヤホンを外す。店内ではルイ・アームストロングの歌が流れているようだ。扉を開けて外に出ると、空に低く漂う暗い雲が見えた。なんだか、雨の匂いがしそうだった。