NIGHT SCRAPS

夜をつらつら書き連ねるブログ

怒り

 三角コーナーの底で腐った果物のような、汚い感情をここに吐露しようとしている。なんといえばいいのかむつかしいけど、何でもかんでもカテゴリー化させて言論を封じ込むのは嫌いだ。「女性だから」「〇〇反対の人だから...」と、個人を集団の中に詰め込んでいくのは卑怯だと思う。なぜなら、それは個人の話を無理やり集団の権力関係へと引き込んでいくことと同じようなことだからだ。

 一人の女性が「女性はみんな...」とか、ただの男性が「男は〇〇されると喜ぶ」なんて言っているのを見ても、違和感を覚える。本当に小さいことなのかもしれないけど、個人の話に説得力を持たせるために存在しない不特定多数の他者を持ち込むのは、これまた卑怯だと思う。そもそも、「みんな」の話をすること自体に、うーんという感覚を抱く。これは「みんなって誰だ!」という記事の中で話したと思うけど、もう一度話しておきたい。

 「みんな」の話というのは、必ず誰かを排除している。例えば、「血液型がA型の人は非常にマメな人だ」という風潮がある。それはきっと、A型の人がメモを取っているところや勉強熱心なところをよく見かけたからだろう。A型の人にもマメじゃない人はいる。そして、そうした「A型的じゃない人」は違和感を覚えられる。「みんな」の話は、大多数の声を際立たせるためのもので、少数の声は異質なものとして流される。

 日本人は愛国心を持っていて、日本を愛している。誰かにとっては普通のテキストだろうけど、僕はなんだか気味悪さを感じる。日本のどこかで当たり前のように消費されているこのテキスト。例えば日本の諸問題について批判的に述べた人に対して、「そんなに日本が嫌なら出ていけ」というステレオタイプな反論が行われる。これもおそらく、最初に述べた権力関係に当てはまる。日本の問題を述べているにもかかわらず、それがいつの間にか「日本を愛しているか愛していないか」という問題へとすり替わっている。というより、日本の問題を論じるということが、「日本を愛していない」ということと同じ意味だとされている。これもまた、個人の意見を大きな権力関係に引きずり込むことなのだと思う。

 「日本を愛しているか愛していないか」なんて曖昧すぎることを、「日本の現状に批判的か批判的でないか」に頼りきるというのは、あまりに危険な匂いがする。いつぞやの時代と、同じ匂いがする。見えない、大きな力にねじ込まれて、個人の意見が踏みつけられる。アイヌ語に関する報告書(文化庁のホームページに載っていた)に書かれている言葉を覚えている。「踏んでいる方は、踏まれている方の痛みがわからない」。