NIGHT SCRAPS

今 https://note.com/star_gazer_

祝祭

 きれいじゃないけど晴れた空を見ていた。雲のクリームが溶けて混じった淡い青色。風を鼻から吸いこんで、少しだけ吐き出した。授業がいつもより早く終わったから、浮れた気持ちで自転車を走らせて、今月号の雑誌を買いに行くことにした。のんきな午後だ。

 狭い道を通って、信号が青になるまで待って、また別の道へ曲がっていく。風に乗ってぐんぐん道を進んでいくうちに、いろんな景色が見えてくる。前の建物に隠れていた小さな家が顔を出し、公園で戯れる子供たちが現れ、左へカーブを曲がれば可愛い人とすれ違う。本屋さんに着いてから雑誌をちょっとだけ立ち読みして、躊躇する暇もなくレジに向かった。きつね色の紙に包まれた雑誌。自転車のカゴに立てかけるように置いて、また漕ぎ始めた。

 庭のある家がふと目に入った。小さなものだったけれど、そこには気品のある暮らしが薫っていた。山から下ってきた清らかな水がツトツトと滴り落ちているイメージ。思い浮かぶのは丁寧な暮らしだ。休日にはレコードを流し、暑い日にはかき氷を作って自家製のシロップをかける。夕方に家の周りを散歩して、帰ってきたら机上の手帖をめくる。万年筆で今日見た美しいものを記録していく。夕映えで庭の緑が光っている。ゆっくりとご飯を食べて、涼しい夜風を浴びながらお茶を啜る。そして虫の音と蛙の歌を聴きながら眠りに落ちる。

 こんな生活が欲しい。家に差し込む、燃える頬のような夕映えに見惚れたい。瓶の底に残された可能性を探ってみるけれど、そのうち夜が来てしまう。だけどそうなる前からだいたいのことは予測できている。瓶の軽さと夜の重さ。帰る道の途中で見つけた、ムーミン谷にあるような家。季節がまわれば咲く花の色も変わって、地球の片すみを彩る。こんなの無理だろ、誰が管理するんだよなんて思いながら、そこを通り過ぎる。

 だけどもし、何かの間違いで丁寧な暮らしを手に入れたら、大切な人とお祝いをしたいな。ご近所の絶望を隠し味にして、温かいシチューをふーふーして食べるんだ。いつかサンタになったり、ゴムプールに空気を入れたりして。今はただ、曇ったガラス窓から夕日を眺めていよう。ぎりぎり澄んだ瞳で。

猫にならう

 甘い声がする。夜、みんなが寝静まった頃に外の方から聞こえてくる。ベランダに出て覗いてみたって多分なにも分かりはしない。かと言ってこんな時間に、甘い声の主を探すためだけに外へ出るのもなんだか恥ずかしい。だらしない恰好で明かり片手にうろうろしているところを、同じく明かり片手の誰かさんに見つかったらお互い気まずいし。そんなことを思いながら、布団に身体を預ける。眠りにつこうとする間、ずっと心を撫でるようなさみしげな声がしていた。ごめんよ、仔猫さん。

 朝になって目覚めても、あの声がした。ベランダから顔を出して小さな獣の姿を探してみるものの、見つからない。ただ空の猫缶が一つあるだけだ(愛とお節介の象徴)。ここにいて誰かの寵愛を受けるのもいいし、どこか別の場所へ移るのもいいし、君の勝手にすればいいと思いながら大学へ向かった。ここに来られたのだから新しい場所にだって行けるだろ、と。

 猫はときどき、悟ったように僕らに話しかける。でもこちらは何を言っているのか分からないから、仕方なくもふもふしたからだに触れる。人間はいつ猫のことばを忘れてしまったんだろうなんて考える。ずっとずっと昔の時代には、きっとみんな猫のことばも理解できたんじゃなかろうか。まあでも、無理もない。言葉は意外とむつかしい。皮肉とか嫌味とか、言葉の裏を読みとかないといけない表現があるくらいだから。そういう風に言葉を磨いていったら、猫のことばなんて忘れてしまうはずだ。

 言葉なんてただの音の連なりだけど、決して軽いものじゃない。いい人と出会って、仲良くなりたいな(あわよくば恋仲になりたいな)と思っても、いろいろ考えて言葉を飲み込んでしまう。恋愛ドラマでよく繰り広げられる下らない問答だ。言ってしまえ言ってしまえ、と心の誰かが叫んでも、次の朝には「言わなくてよかった」とホッとする自分もいて...。本当はあの猫みたいに、情けない炎をさらけ出したい。うん、あの猫みたいに。退屈な夜、虫の音だけが辺りにあふれている。あの仔の声はしない。微かに痛む頭を枕にのせて、ほんの少しだけ誰かのことを想う。ここに来られたのだから新しい場所にだって行けるだろ。

ライラックの子

 君から「大丈夫?」と聞かれ、苦しくなった。本当ならもう人間にならないといけない頃合いだけど、中途半端な動物のまま、思い出を見ていた。カビ臭い風を吸いこんで町へ出る。得意のまじないで自分を偽って、知らない人の隙間を縫った。苦しい夜ばかりで誰でもいいからそばにいてほしかったけれど、誰かに選ばれるような自分じゃないことも知っていた。新しい知識とか、やさしい嘘とか、そういうものは黄昏のようにやさしく感じられた。大丈夫? 大丈夫だよ。

 最初はただの距離間の遠さだったのに、やがてそれが心にまで及んでしまった。君がさみしいうちは僕も君にすがっていられたけど、だんだんそういうわけにもいかなくなって、話す機会も少しずつ減っていった。僕は思い出の中の君を求めていた。君は新しい町で変わっていった。そして、かつての二人なら抱かなかったような感情も覚えはじめて、それはある日突然決定的なものになった。絡み合った糸は解けなければもう切るしかない。気づいたときには、僕はもう君と連絡を取るすべを失っていた。

 さよならの効力をしばらく味わいつつ、人間になろうと季節を生きた。朝日のような微笑や、真昼の空みたいな人に惹かれたりした。夕暮れ、お風呂に浸かりながら思い出を繰り返し拾った。うんざりする人波をビート板で泳ぎ、むつかしい話を聞いて生きる希望を見出した。世の中に対して静かに中指を立てながら。

 君に付着していた恋しさや懐かしさは、時の風に運ばれて消えていった。「ありがとう」も「くそったれ」も褪せてしまった。それでも、懸命に手を振りつづけたあの友愛は存在している。いつしか会えなくなると分かっていながらも強く再会をねがう無邪気な心。落雷を受けた樹木からまた新芽が顔を出すように、身体の底から湧き立ちはじめる。痺れるほど振った手を下ろして歩んだ先できっとそれが起こる。あふれる気持ちに我慢できなくなったら形を変えて会いに行こう。大丈夫、自分が大丈夫じゃないってちゃんとわかってる。

可愛いね

 ごめんなさい。周りから浮いている人を見ると嬉しくなる。ちょっとした宝石を発見したような気持ちになってしまう。普通の定義はいろいろあるにしても、普通じゃないオーラはあちこちで香っていて、その色がするたびに心が躍る。本人が気づいていても気づいていなくてもどちらでも構わない。桃の果実の中にある大きな種のような、誇らしい歪さを保ちつづけてほしいと勝手に思う。

 小学生の頃に、ハートマークが好きな男の子がいた。今になってみると別段なにも思わないけれど、幼い僕は強い違和感に襲われた。「変わっている」という乱暴な言葉に頼った。どうして彼はハートが好きだったのか、理由は謎のままだ。本人に何か言ったわけじゃないけど、そのことを思い出すと申し訳ない気分になる。周りと違うからというだけで誰かをちょっと排外する罪な心。今もどこかに棲みついているのだろうか。透明な闇の中で考えている途中だ。

 どういう風に生きるべきだとか、他人に押し付けるほど長く生きていないけれど、できるだけいろんな違いを受け容れていたい。いい匂いがする手紙につらつらと書き連ね、便箋に入れてハートマークのシールを張り付けよう。例えて言うなら、緑の海原に浮かぶ彼岸花の艶やかな赤色。可愛い人の腕に見つけた小さな肌荒れ。日の光にさらすようなことはしない。カーテンを閉め切った部屋の中、ひそひそ声で褒めそやす。もしもそれが全部うそになってしまったとしても、笑って水に流そう。そのとき僕が可愛いと思ったことに変わりはないのだから。

 今までの言葉は自分を肯定するための口実かも知れない。こんなこと言っておいて、他人のすべてを受け容れることができるのか分からない。ただ今は、普通のオーラのする方へ誘われていたい。周りから見れば尖っているような部分でも、辿っていけば柔らかい砂地に行き着いたりするのだ。自分と違う人と話してみると「合わないなあ」と思うこともあるけれど、その一方で退屈しない。英語の歌を口ずさむように、南国のフルーツを齧るように、いろんな人を可愛く思えたら...。

ルナ

 夜を雇う。お金がないから、いつも退屈な夜がやって来る。だんだん感覚が麻痺し始めて、そんなことにも慣れてくる。そして僕自身が退屈になっていく。だけどときどき幸運が訪れて、特別な夜を連れて来ることができる。どれだけ普通の服を着ていても、はっきり分かる。手触りも息遣いも違う。足音を聞いただけで、ふっとその方に振り返ってしまう。

 たぶんそれは、普通の人にとってはありふれた夜だと思う。今夜もどこかで量産されているような感じだ。お酒を飲んで、淡くなった理性でふざけたことを話す。恥ずかしくなって笑って、またグラスに口をつける。顔を赤くする。それでも僕からすれば禁断の実で、今もその味が生き永らえている。大きさも色も違う惑星が太陽の周りを公転するように、ばらばらな三人で話を弾ませた。囲むテーブルの上で、見えない熱が踊っていた。居酒屋を出てとぼとぼと歩き始めたときも、その炎が優しくついて来た。

 孤独も好きだ。たった一人でいろんなことを考えて、苦しくなったら夜に逃げ込んですべて諦めてしまえばいい。いくつも手放した未来を知ってブルーになったとしても、大丈夫。お酒で鈍らせて、布団で溶かしてしまおう。でも、夜でさえ消化しきれずにすべて戻してしまうときがあって、中性脂肪のような苦しみを朝まで抱え込む。月しか知らない無様な格闘のあとで、お日様にも知られずに眠りにつく。それでも孤独が好きだ。小雨の日々を愛している。

 どういういきさつであの夜に至ったのか、説明するにはややこしすぎる。言えるのは、あんまり知らない人同士で楽しくお酒を飲んだということだ。喋るたびに僕の分身が口からこぼれ落ちて、いろんな鍵が外れていった。魔術的なチカラがきっとそこにはあって、僕はまんまとかかってしまったのだ。そして僕は一昨日見た景色を思い出す。すし詰め状態の車内で、窓に張り付くタコのような僕が見た夜の町。いくつもの蛍の光。その光は人生を教えてくれる一方で、どこかで僕を突き放していた。だけど日々はよく分からない。きっかけがいつ訪れるのか、予測なんかできない。あの日の夜のまぶしさがどれだけ儚くても、また退屈な夜を雇うことになろうとも、別にいいのだ。月と僕はすべて覚えている。

パーマネント恋

 頸の匂い、鎖骨のあいだの窪地、心地いい枕。窓から漏れてきた昼の光で、頬が桃の薄皮みたいに見える。僕は猫の視線で、その一つ一つを点検する。少しばかり傷んだ髪の毛も、唇のすぐ近くにあるほくろも、早くなった心拍数も。町の音がぼんやりと聞こえる。寝相を変えて視線を移すと、洗濯物が風に揺れているのが見える。僕は、こういうのが永遠につづくのだとはっきりと分かる。ときどき小休止を挟みながら。

 目を覚ます。うるさい音を止めて、また布団に埋もれる。仕方がないからミイラのように起き上って、いろいろ面倒なことを済ませて余裕もなく出かける。すぐに泥まみれの午後がやってくる。鼠色の雲から、こぬか雨が降る。傘で顔を隠す。よれたシャツで帰宅する。そして普通に生活してみれば、もう寝る時間になっているのに気づく。今日を振り返ることも、人生を省みてブルーになることもなく、布団のなかで目を閉じる。こんな調子で、好きな季節は訪れるのだろうか。

 またあの二文字に頼りたい。あまりにもぼんやりとしていて、無様で、耳のあたりが熱くなる言葉。口にしたとたん、ゆるやかな坂道を上る二人に夕日が手を伸ばすような言葉。光が公園の雑草を撫でて、畳の隅々まで愛でる。台所で湯気をたてる晩御飯をほったらかしにして外へ出る。秋の匂いが鼻をくすぐる。薄暗い町に、街灯が一つぽうっと輝く。ぎこちなく、肩が触れる。

 どれだけ月日が経とうと、恋の感覚はまぶしい気がする。心に張りついた汚いシールが剥がれて、不思議なチカラがまた生まれる。ふとした瞬間に相手が発した言葉で、見限りかけていた世界に惚れる。突き放したくなるくらい側にいたいと思う。花に触れるように手を握る。小さな棘で血がにじむ。だけど、今はわからない。だんだんと純度が低くなっていて、変に見栄を張ろうとしている。街灯は明滅し、虫の音はさみしい。それでもアホな夢を見続ける。お弁当にあれこれ詰め込むように、あっという間に暮れる一日の中に恋の時間を差し込みたい。

骨の芯まで

 刺すほどの冷たさ。それがずうっと心から離れなかった。だけど僕を乗せたバスがトンネルを抜け、次々と車を追い越していくのに合わせて強引に引き剥がされてしまった。熱い。氷のようなそれがくっついていたところが、ひりひりと痛んでいる。そして今度はこの痛みがしつこく付き纏いはじめる。バスを降り、駅で鉄道に乗って移動し、そこから自分の家まで歩いたあともずっと。

 夕方になって家の近くを歩いてみた。君が知らない場所、小径、顔。ときどきやな臭いがどこかから流れてきて、鼻がつんとした。締めていたネクタイを緩むように、昼の空気がほどけて安堵と倦怠が辺りにあふれていた。ふわふわと浮ついた心地が不穏な夜へと繋がっている。君がいない久しぶりの夜。自分でなんでも用意して、自分のために消費して、自分ひとりで片付ける。まだ不慣れな生活。外から鈴虫の声がきこえて、そっと耳をすました。ベランダに出ると星の光をいくつか確認できた。

 どうせなら最後にケーキでも買っておけばよかった。安易に喜ばせる方法に頼っておけばよかった。でも相手が本当に望んでいるものを知って、その途方もない日々を思ってしまった。時間もかかるし労力も必要だ。はたして自分にどれくらいのことができるんだろう。寝返りをうって、ふと目を開いた。オレンジ色の照明がたそがれのように揺れていた。小川が頬を渡って海ににじむ。隠すように目をつむる。やっぱりケーキを買って三人で食べたらよかったかな。

 ずっと予感していた、刺すほどの冷たさ。側にいた日々が長くなるほど、そこから離れるのは難しくなる。実際に離れた今、燃えるような感覚を抱えている。この熱をどこへ連れて行こう。不細工な僕をどこへ泳がせよう。骨の芯まで孤独だし、一人でできることなんて高が知れている。いつか君に果物を届けよう。すぐに腐ってしまうかもしれないけど、ものすごく甘いものにしよう。この熱で種を温めながら、小川から掬った水をやろう。ときどき自分自身にケーキを贈りながら。