NIGHT SCRAPS

今 https://note.com/star_gazer_

ぽこぽこと、思考する(17)

・モラトリアムを終えようとしている人間の戯言として聞いて欲しいです。社会というものを批評するのはずいぶん難しい。例えば僕が、インターンシップなんてやめようとか、みんなスーツを着ないとダメだなんておかしいとか言ったところで、「それはお前の甘えだ」と言われればそれで全部片付いてしまう。「みんな」がどこかで疑問に思っていること(そして強要されていること)も、「みんな」がしているから従わないといけなくなる。

 このことはいろんなことに言える気がする。例を挙げれば、先生という職業が大変になっている状況もおおよそ無視されている。クラスの担任教諭は約四十人のことを意識しながら自分が担当している教科についても考え、かつ部活の顧問をしている場合そちらにも気を配り、病欠している生徒がいれば保護者と連絡を取る。いじめが起これば生徒たちに話を聞かなければいけない。どんどんと膨らむ仕事、それらはすべて子供たちへの思いやりや善意といったものがベースになっている。「先生ならこれぐらいできて当然」「子供たちのために」。そういう言葉を投げかけられると、断る理由が見つからない。ただ、心血注いで働いても、不祥事やミスばかり光を当てられる。

・「この人はこうあるべき」という価値観をゆるりと変えるのは結構難しい。「記号」に収まって自分を殺していくのは楽かもしれないし、「普通」になれない人を馬鹿にするのはかなり気持ちいいに違いない。そうだそうだ、人を殺すのはゲームオタクで漫画狂いの「私たち」とは違う人種なんだ。ああ、「私たち」の豊かさを貧しいクニの子供たちに分け与えたい(そしてあなたは中古のブランド品を身にまとう)。そう思えたら世界は狭く美しいものになる。こう皮肉る僕もまた、狭い世界に生きている人間だ。誰かのことを無責任に責めているわけだから。ただ、息苦しくなる状況の中で、なぜその元凶が責められないのか(元凶ってあれです。 犯人とかひきこもりとか、そんなんじゃないです)。

・世間というものを調べたときに、「個人は必要ない」や「排他性がある」といった特徴が出てきて、たしかにそうかもしれないと思った。個性なんて大事じゃなくて、「どこの出身でどういう家庭に育ったのか、そしてどの学校を出たのか」みたいな履歴の方が何倍も重要。その中に「普通」と異なる部分があると、眉は歪み、ぱちんと個人をはじく。

・ここから先は完全に僕の妄想だから、気をつけて。あらゆる心の症状に名前をつけて病人を生み出すことが流行っているけど、あれは単に健常者とそれ以外をふるいにかけているだけなんじゃないか。というより、いろんな人が精神を砕かれ燃え尽きている状況がたくさん起こっているという構図を批判すべきじゃないか。なぜそれが起こっているのか。ただの甘え?弱さ?それとも資本主義の末路なのか?さあ、薬を噛もう。エナジードリンクを飲もう。

波光

 冷房の風があんまり冷たいから(でも起き上って止めようという気にはなれない)、僕の肌は生きているのか死んでいるのか分からなくなる。まだ眠りにつくには頭がふつうじゃない。そこで僕は疲れようといろんな策を講じるけれど、ただ気休めの悦びと大きな虚無感を連れて来るだけだ。冷たい風の中で、皮膚が汗ばむ。星がいくつか消えて、月の光なのか朝日なのか、部屋がだんだん薄明かりに包まれる。だけど安心だ。やっと夢の中に落ちて、いろんな苦しみがほどけていく。

・曇り空の下、海へ出かけたい。君の手を取って、スポンジのような砂地を駆けていくのだ。ときどき乱暴な風が吹く。白い波が這ってきて、僕らの足を舐めていく。でも二人はそういう不愉快さも笑いとばしてしまう。白いシャツが濡れてビニールみたいになっても、全然気にせずに、何の合図もなく抱擁を交わす。

 目が覚めた。まだまだ眠れそうな気がするけど、僕は勇気を振りしぼって朝ご飯を食べ、シャワーを浴びる。カバンを担いで雨の中を歩いていく。うざったい湿気が首筋に絡みついてくる。テストや講義や課題なんか面倒くさいけれど、他のことを考えなくていいから楽だったりする。チャイムが鳴って、静かに教室を出る。雨がやんでいて、ぬるいような涼しいようなあやふやな風の中、濡れたコンクリートの道を踏んで家まで帰った。そして今、深夜だ。朝の光で隠されていたいろんなことが夜の静けさに暴かれて、混乱している。さあ、薄い布団に包まって目をつむるのだ...。

・君は絵を描いている。音楽がガンガン鳴っていて、僕はスマホを触ったり本を捲ったりしている。優しさと温もりのある君の絵に「いいね」して、僕は洗濯したシャツを干しにベランダに出る。ふと顔を上げると月の光がほのかに町に降っているのが見える。僕らがだべっている間にいくつかの星が砕け、滅んだ。シャツに鼻を寄せて洗剤の匂いを確かめる。部屋に戻ると君は出かけていて、ソファに君の体温と、あの素晴らしい絵だけが残っている。僕は涙を食べる。そうしてまた君を忘れていく。

五千光年の夢

五千光年の夢

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 あの子と帰った道を覚えている。本当はさっさと帰って勉強しなきゃいけないのに、あえて遠回りしたその道を。風がなびく橋の上、ぐっと下る坂の途中。思い返すと一瞬のことだ。だけどこのテープを頭の中で何回再生しただろう。誰もいないことを確かめて手を握ったり唇を合わせたり、神さまから逃避していたころ。季節も温度もぐちゃぐちゃだし、あの子の声さえ思い出せない。僕のなかで、当時の記憶は日なたのように今もやさしい。

 帰省したって、もうあの橋を渡ることも、コンビニで君を待つこともない。君の住む町がぜんぜん違うものになったって気がつかないかもしれない。もし知ったとしてもむしろそれを有難く感じるかもしれない。だけど、僕が故郷を離れるときに君の町を通り過ぎた、そのときの感触は永遠に忘れない。よく知る風景が後部座席から見えて、そして遠ざかっていく切なさ。君がたしかにそこにいるんだと分かっているのに挨拶も抱擁もできないんだという事実に対する悲しさ。このときの僕は、君が昨夜からずっと眠らずにいたなんて知らなかった。知って、より一層苦しくなった。

 それからのことは、これを読んでいる人の想像に任せる。でも、ありふれた別れだと今では思う。「こんなに遠く離れていると 愛はまた深まっていく」と誰かが歌っているけど、なかなか難しいんだなと知った。僕と彼女は、あの町であの季節に知り合ったから、肌を重ね合えたんだと思う。ちょっとした魔法だ。少しばかり頭がおかしくなる魔法。当時の(いやひょっとすると今も)僕の幼稚さや醜さは、すぐに思い出せる。自分の身の丈を知る前の愚かさだ。

 だけどこの季節は、誰にも奪えない。自転車置き場にこだました二人だけの会話、倫理の時間が終わって二人で教室を出た午後、あの子がくれた金平糖の味。いつも、というわけじゃない。何かのきっかけで、情けなくずるずると巻き戻されてしまう。あの子よりも、こんな季節の方がずっと愛おしいのかもしれない。でもこのときの鈍色の輝きは、僕のなかを巡る赤い血と同じぐらい鮮やかなのだ。春が過ぎて、初めてキスをした初夏がやってくるたび、悲しく光っている。

ありあまる富

ありあまる富

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深夜、胎動

 初めて訪れる街というのは、慣れるまで奇妙に映る。スマホを見て、不安に脅されながらバスに乗る。ああ、ライブ会場に行くまではなんとか順調そうだ。どんどん人が乗り込んできて破裂しそうになるけど、この行き先が合っているんだという安心も高まる。会場近くに止まると、昆虫とか魚類が卵を産み付けるみたいに、大勢の人がバスから吐き出ていった。僕もその一つ。降りると雨が服を濡らした。

 ライブが終わり、熱狂に浮かされたまま外に出る。時間はもう午後9時近く。夜の街に人の洪水が広がって、ずいぶんおっかない風景が広がっていた。仕方なくというか、その波に浮浪しながらしばらく当てもなく歩いた。傘と傘がぶつかって雫が跳ねたり、水溜まりを避けようにも避けられなかったり、さっきの熱狂が夢のように遠くなった。どうやって帰ろう。この人波がどこに向かっているのかも分からないのに。スマホの充電も残り少ない。ホテルのチェックイン時刻だって近づいている。

 幸いなことに、彼らは地下鉄に向かっていた。二十歳にして初めて乗る地下鉄。人を押しのけて券を買い、ひとより先に乗り込んだ。座る場所が無くて壁にそっともたれかかると、どんどん身動きができなくなった。ドアが閉まり、地下鉄が動き始めた。本当に動いているのだろうか。ただ暗闇の中でがたがたと揺れる感覚しかない。まるで産まれようとする胎児の気分だ(まあ、そんなの忘れているけれど)。僕らがいまどの辺りにいるのかは、停車するまで明かされない。出ることなど許されない。

 都会の土の下には今日もたくさんの胎児がいて、街の皮膚の裏をドクドクと流れている。不思議な感じだ。からっぽの暗闇の中で、みんな何を考えているのだろう。ぼんやりした明かりに照らされた自分を見て。あんだけたくさんのヒトに埋もれて、嫌気がさしたりしながらそれでも続いていく営み。街という母体は、毎日毎日暮らしを産んでいる。毒素やアンモニアなんかを処理しながら、一つ一つの細胞に栄養を与えながら。

 ヒトから吐き出て、つまらないホームを去って、エレベーターで地上に出た。怪しいムードの道をそそくさと歩いてホテルに入る。すべての疲れをベッドに預け、ふとカーテンを開けてみる。そこには夜景なんてものはなかった。あの真っ黒な平面が現れただけだった。まあ、いいや。僕はズボンを脱いでいやらしいことをして眠った。

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ぬれた靴

 昨日の雨の行方を考えながら、僕は湿った靴をベランダの日向に移した。ほんの少し膨らんだ川や海、恵まれた森林、コンクリートのうえで行き場をなくした水溜まり。そういう景色を妄想した。今日はずいぶんからっとした気温で、普通にしていたって喉が渇く。自動販売機で水を買って飲んだ(このところ水分だけでお腹が満ちてしまう)。そして、汗臭い人や喪服を着た人を通り過ぎて教室へ向かった。

 書くばっかりの授業は自然と暇になる。窓際の席から緑や青を眺めて、先生が書き終わるとノートに文字を書き込んだ。沈黙を切り裂くみたいに後ろの方からカメラのシャッター音が聞こえてくる。いくつも。書くだけでなんとなく疲れて、先生の低い声があんまり聞き取れない。プリントにしてくれればいいのに、とみんな思っているけど、それを声にする人は未来永劫現れないだろう。窓の隙間から新鮮な空気が迷い込んで、代わりに濁った空気が退席した。ホワイトボードは先生の文字でいっぱいだった。チャイムが鳴る何分も前に授業が終わって、大勢の学生が教室を出て行った(そして次の授業を受ける学生が入ってきた)。

 図書館でフーリガンに関する本を借りた。ただ本をカバンに詰め込むだけなのに、新しい知識が入り込んでくる予感がしてくる。90年代、イングランドで問題となったフーリガンについてのドキュメント。フットボールというスポーツに憑く、愛国心とかナショナリズムとかの問題。今はそれについて考えるのが楽しい。ここ最近、僕の脳の上に豊かな雨が降り注いでいる感じだ。図書館でふと目にした資料から、いろんなことを考える。土壌が大したことないだけに、そこから芽吹くものも少ないんだけど。

 ベッドの上に雑然と本を置いて、こうして文章を考える。「友達から電話がかかってきたりしないかな」とかワガママな気持ちもありながら。そろそろ梅雨の季節かな。シャツが乾かなくてうんざりしたり、水溜まりを避けようとしたらクラクションを鳴らされたり、憂いの多い季節だ。町に溢れる街路樹も、水腹になってしまう。だから今のうちに、若々しく輝く緑の一つ一つを愛でなくちゃ。それにしても、時が過ぎることのなんと早いこと。はあ。

ぬれた靴

ぬれた靴

  • スガ シカオ
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猫のさみしさ

 野良猫はさみしいのだろうか。ふと気になってしまう。猫も人間と同じように、誰とでも仲良くなれるやつとそうじゃないやつがいると思う。''そうじゃないやつ''、警戒心がやたら強くて、「近寄らないでください」というオーラを鎧にしているやつ。きっと彼らは、飲み会にも誘われず、ラインを交換しようなんて言われない。そんな彼や彼女はどこでさみしさを乗り越えているのだろう。

 さまざまな場所で出会った野良猫をいっぱい撫でて可愛がる、という動画をよく目にする。彼らはそろそろとヒトに近づいて、もふられる体勢に入る。あまりに無防備で心配になるのだけど、撫でられている彼らは気持ちよさげだ。でも野良猫の宿命というべきか、さよならのときが来る。「別になんともありませんからね」という彼の表情のうらには、どんな感情が渦巻いているのだろう。答えが出ないからこそ、いろいろと考え込んでしまう。ほんの少し怒っているのか、それとも何にも思っていないのか。彼らにしてみれば、人間なんて(ときどき食事を恵む)マッサージ屋さんみたいなものだ。

 もしも彼らが淋しくて僕らのもとに近づいてくるのなら、そして触れられることでそれが満たされるのなら、言葉はずいぶん薄っぺらいものだ。掌の温度や毛並をそっと撫でる感触でなんとかなってしまう。安心させる言葉も、肯定してくれる人も必要ない。そうして猫たちは風の向こうで、午後の陽だまりに守られる。ときどき本能のために誰かを傷つけては、何食わぬ顔でそぞろ歩く。でも僕は考えてしまう。ひとりぼっちの猫は、家族で行動する猫たちを見るとさみしい気持ちになるんじゃないかと。他者を見て自分を知る。自分と似た存在がいれば、そこに比べ合いが生まれる。生徒たちがテストの点数を見せ合いっこするように。

 どうして僕がここまで猫のことを考えるのか。それはなるべく文字数を埋めるためだけど、なにより猫が好きだからだ。人間と猫が戦争したら、僕は猫の側に付くだろう。猫と犬が戦争したら...、それはまた考えようか。今はただ、軒下で雨露をしのぐあの猫のことを。ただそれだけのことを。

愛のままを

愛のままを

  • カネコアヤノ
  • J-Pop
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モリッシーとサッチャリズムについて

 モリッシーという歌手がいる。彼は1959年にイギリス北部の労働者階級の家庭に生まれ、1982年にザ・スミスというバンドを結成する。バンドはヒットし、85年に発売したアルバム『Meat Is Murder』はチャートで一位を獲得した。しかし、ギタリストであるジョニー・マーがバンドを脱退しそのままザ・スミスは解散。以降モリッシーはソロとして活動している。彼の人気を示すものとして、2006年にBBCが行った「生けるブリティッシュ・アイコン」の調査結果が挙げられる*1。なんと彼はポール・マッカートニーデヴィッド・ボウイなどを差し置いてミュージシャン部門で一位に選ばれたのだ。彼の人気はどこから来ているのだろうか。

 ザ・スミスが結成され、そして解散した時代、イギリスで政権を握っていたのはマーガレット・サッチャーだった。サッチャーが行った政策を挙げればきりがないので、労働者階級に影響の及ぼしたものに焦点を絞ると「炭鉱の閉鎖」「公共事業の民営化」「人員削減、工場閉鎖」などが挙げられる。こうした政策の結果なにが起こったかと言うと、多くの失業者が生まれたのである。サッチャー政権以前から不況の波を受けて失業者がいたことは確かだが、ザ・スミスが結成された1982年の失業者数は約270万人、ピークの1986年には約320万人の失業者数を記録した*2。当時のイギリスを支配していた「失業」という恐怖は、ザ・スミスが、またモリッシーが人々に支持されていく一つのきっかけになっていく。

 モリッシーは歌詞の中で食肉や教育など、様々な事柄を批判したが、サッチャー政権もその中に含まれる。‘‘Still Ill’’ではノスタルジアを感じさせる歌詞で今を嘆き、‘‘You've Got Everything Now’’では、何もかも失った自分とすべてを手にしている相手を対比させて憂いを表現した。モリッシーの歌詞に漂う暗さは、当時の労働者階級がどこかで感じていたものなのかもしれない。

 サッチャリズムは労働者階級のコミュニティも壊した。彼らのコミュニティではお互いに子供の面倒を見たり、お金を貸し借りをしたりといった相互協力が行われていた。それが失業によってどうなったのかは想像に難くない。一つの例を紹介したい。老夫婦とその娘夫婦が一緒に暮らしていたが、母親以外が全員失業してしまい、生活が苦しくなった老夫婦は泣く泣く娘夫婦に家を出て行ってもらう。もちろん縁が切れるわけではないが、失業によって無意味に分断される家族がいたことは確かだ。

 そもそも僕がモリッシーサッチャリズムについて調べたいと思ったのは、サッチャー政権のイギリスと今の日本が類似しているように感じたからだ。新自由主義的政策、大きくなる経済格差...。そしてどちらも長期政権だ。ちなみに言えば、サッチャーを支持していたのはほぼほぼ富裕層だったらしいが、日本ではどうなんだろう。とにかく、そういうものを相手に戦ってきたモリッシーの姿が妙に眩しく見えたのはたしかだ。

 モリッシーがどういう人物かを知るのに一番わかりやすいのが‘‘Interesting Drug’’だと思う。


Morrissey - Interesting Drug

 男子学生が4人登場する。一人は(たぶん)モリッシーの歌を聴いて身体を揺らしている。二人目は壁にマジックでSOME BAD PEOPLE ON THE RIGHTと書く。実際の歌詞は‘‘on the rise’’なので、「右」と変えた部分に意図があるのだろうと分かる。三人目はヒールを履いてNMEを読んでいる。モリッシー自身、ザ・スミス時代に女性もののブラウスを着てライブをしていた頃がある。たぶんこれは、「男らしさ」へのゆるやかな批判だろうと思う。そして四人目、革を使った服の写真を見て、そのために殺されたアザラシのことを想像し、写真を握り潰す。さらに不当解雇されたらしい女性とともに、モリッシーの依頼を受けてある場所へ向かう。実験用にラボで飼育されていたウサギたちを保護するために。

 モリッシーは常に「虐げられている側」に立っている。社会の下にいる側。そう一言で表現してもなかなか難しい。労働者は社会に虐げられている。その労働者社会の中でときに女性が虐げられる。しかしそもそも人間というものは動物を虐げている...。こういう禅問答のようなことが続く。しかもモリッシーは男性であり、人間だ。この矛盾もまた、モリッシーの魅力だと言えなくもない。人は何かに虐げられながら、一方で何かの犠牲の恩恵を受けている。

 先述の通り、彼は2006年のBBCの調査で名前が上がっている。ミュージシャン部門で一位と書いたけれど、実は総合でも二位に輝いている。どうしてサッチャー政権以降の2006年にモリッシーの名前が?それはとっても簡単な話だ。とっても。


Morrissey - There Is a Light That Never Goes Out (Live at the Hollywood Bowl)

*1:ブレイディみかこ(2017)『いまモリッシーを聴くということ』、Pヴァイン、pp.8-9

*2:櫻井幸男(2002)『現代イギリス経済と労働市場の変容-サッチャーからブレアまで-』、青木書店、p.119