NIGHT SCRAPS

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光に袖を通す

 朝起きてカーテンを開けると、久しぶりに晴れ間がさしていた。光が柔らかい。ここ数日雨ばかりだったから、町が車の走る音しか聞こえないのも新鮮だった。ベランダに出ると風が涼しくて、つい洗濯をした。外へ出かけて、大学の門を通ろうとしたとき、野良猫がとことこと僕の先を走っていくのが見えた。久しぶりの野良猫だ。じっと目が合ったけど、こちらが視線を逸らすとその隙に逃げてしまった。

 暗いオーラを切り裂いて、太陽が顔を出したような感覚がした。その光に誘われて、いろんな生き物が外に現れる。ちょうど、街灯に蛾が寄ってくるような感じだ。犬は散歩してもらうために家を出る。野良猫はえさを求めてあちらこちらへ向かう。光は大きなパワーを秘めている。

 ずうっと、リビングの蛍光灯が一つだけ切れていた。半年ぐらいそのままにしていたけれど、台所の蛍光灯も切れたのに合わせて買いに行くことにした。すぐ済みそうなことに限って、先送りにしてあくびをしてしまう。でも生憎その日は小雨が降っていて、蛍光灯を二つ持ち、傘をさして歩くさまはさぞ可笑しかったと思う。椅子がないからベッドを移動させてそれを交換した。スイッチを入れてみる。ジジジと瞬いてから、白い明かりが点いた。なにこれ。驚くほど白くて、でもこれが普通なのだと考えると、今までどうやって暮らしてきたんだろうと不思議になった。最初は同じだったはずなのだ。それが気づかないうちに白さが衰えてきて、部屋の明るさがどんどん落ちていった。そして、今またここに白さがよみがえった。

 制服姿の僕がマンションの階段を歩くと、オレンジ色の明かりが灯っているのが見える。夕餉(ゆうげ)の匂いがする。ときどき、二人の声が聞こえる。重いドアをそおっと開ける。肩に乗った疲れを玄関に置いて、「ただいま」と言う。

 朝の光は動き始める人たちの背中を押している。夜の光は帰ってくる人たちを抱きしめている。僕は、家の窓に映る明かりが好きだ。特に夕方の明かり。浮かぶイメージは、結婚して二十年ほど経つ夫婦が食卓を共にするところ。別に会話はないけれど、当たり前のように一緒に食事をする夕方、その場面が見えてくる。人はずうっと昔から、火という明かりを大事にして暮らしてきた。星の光を結んで絵を描いてきた。

 明日は晴れるか分からない。天気予報も信用ならないから、ちょっとでも心配なら傘を持っていこうと思う。でも晴れるに越したことはない。光がさせば無条件に元気になれるんだもの。晴れた空はやっぱり好きだ。夏の若々しい青も、冬の清らかな青も。どちらもすごくまぶしい。

若葉

 走っている。雨の中を、小学生が傘もささずに駆け抜けている。子供たちの中には、傘を持っているのにさしていない子もいて、微笑んでしまった。元気な子は、ほんとに元気だ。でも親御さんの立場からすれば、びしょびしょになって帰ってこられても困るだろうな。服を脱がして、タオルでからだを拭く。靴も濡れるだろうから新聞紙なんかを詰めてあげないと。雨は面倒だ。

 そういえば自分が小学生のとき、友達の傘を壊してそのままダッシュで帰ってしまったのを思い出した。そのあと母に話してなんとかなったけど、記憶はずうっと残っている。小さい頃から調子に乗ると人に迷惑をかけてしまう性質(たち)だから、いろいろと後悔を積み重ねてきた。すごく不思議なんだけど、気を付けよう気を付けようと思っていても、一度ブレーキが壊れたらそのまま駆け抜けてしまう。昔からの病みたいなものだけど、気を付けないとなあ。

 子供を産むということは、花屋さんで無作為に苗を選ぶことと似ている。それがどんな花に育とうとも、愛を持ってかわいがる。時々しおれても、またなんとか咲けるようにたっぷりの水と肥料をあげる。好きな色の花が咲かなくても、その色を肯定してみる。苗は、風や水の味を感じながら成長していく。そして花は種を残して、そおっと枯れる。

 小さい頃の経験は、そのあとの自分を大いに創り出しているような気がする。自分が生まれた場所、周りの人、育った町の匂い、走り回って掻いた汗、いろんなものが心を飾る器になる。でも、それって自分が選べるものではないから、嫌いな町で嫌いな人と関わって大きくなった人は、いったいどんな器が出来上がるのだろう。器をぱりんと割って新しい器を作ろうとするとき、どの要素を材料にするのだろう。きっと人は、自分の意識がどれだけ手を伸ばしても掴めない無意識を所有している。それがいつまでもねちっこく附いてくる。

 木は、あらゆるものを吸収して青々とした葉を繁らせる。自分もまだ大人じゃないから、きっと吸収している途中なんだろう。自分に子供ができると、いろんな考えが変わるらしいけど、それは「自分はこの子を育てていくんだ」という意識が関係しているような気がする。子供にいろんな栄養を与えながら、「与えている」ことから自分が育てられている。青葉は、いったい何時になると枯れるのか、わからない。

 子供たちが雨の中を走り抜けていく。なんだか、花が水を吸い取っているように見える。それとも、雨の日に現れる妖精か。

世界の遊び方

 奥山由之さんや川島小鳥さんの写真を見て思うのは、「これは景色が素敵なのか、写真家さんの景色の見方が素敵なのか、どっちなんだろう」ということだ。たぶん僕がそこを通っても「うわ、虫だ」ぐらいしか気にしないだろう。でもそんな何てことのない景色も写真家さんのフィルターをくぐると、「空気がおいしそうだ」とか「疲れが吹っ飛びそう」なんて簡単に口に出しそうでおそろしい。

 そして、歌。星野源さんや草野マサムネさんの詩の世界も、いったいどんな目で景色を眺めればこんな言葉がするりと出てくるんだろうと不思議になる。詩を読んで浮かんでくる映像は、畳敷きの部屋だったり、空の彼方、爽やかな日のさす朝かと思えば、逃げ場のない地獄。言葉で編まれた世界はやおよろずで、一生体験できないようなことも描かれている。例えば、「恋」という題材一つとっても嬉しかったり悲しかったり、そのときどきで世界の見え方が変わってくる。

 そんな人たちの目が欲しいなと思う。きっと何事もおもしろく、きれいに映るのだろう。彼らの写真の中に溶け込みたいし、詩の世界でそのキャラクターを演じてみたい。スピッツの「遥か」を聴いて思い浮かぶのは、カルピスだ。カルピスのような瑞々しさ、身体にすうっと行き届いてゆく透明度。ほんのり甘くて、口の中にしばらく残る感じ。草野さんの目線で世界を見てみたい。そうして、世界の真理や神秘をぐるりと覗いて、もっと作品の中へ潜っていきたい。

 草が風に吹かれてそよそよと揺れる。なんだか身体を揺らしながら笑う人のように見えて、面白くなった。雲がくじらの形に見えて嬉しくなるのと同じだろうか。ごくごく当たり前のことに新しい顔が覗けたとき、ぱあっと日が射してくる。町や、家、生活の中に新しい何かを見出してみる。雨が本降りになったら、雲の上の誰かが機嫌を悪くしたようなイメージがときどき浮かぶ。太陽が顔を出せば...。

 ほぼ日が主催する「生活のたのしみ展」も、その題名も趣旨もすべて面白いなと思った。たった少しのツールで営みの色は明るくなり、意識さえも変えてしまう。心を明るくするのなんて実は簡単じゃないかと思えてくる。世界はいくらでも遊び放題だし、楽しんで損はない。街へ出かけようと家で窓から景色を眺めようと、ちょっと少しのチカラで魔法は生まれる(と思う)。僕が好きな星野源さんのエピソードで、あるCMの撮影中、スタッフさんの頭に雪が落ちてきた。それを見た星野さんはこう言った。「あ、ハート形だ!」。同じ世界でも、その見え方はまったく人それぞれ。それがまた、すてきなのだ。

言の葉

 本を開く。上から下へ落ちてゆく言葉は、なんだか雨のようだと思う。規則的に、まじめに流れてゆく雨。下まで行ったら、もう一度上へと帰ってゆく。ページを捲る。そうしてページが最後まで行くと、長い雨季が終わる。雨で湿った頭の中もある程度経つと乾いて、その気になればまた雨を浴びに本屋へと向かう。これはあくまでも、比喩のお話。けれども、言葉の雨はうつくしい。

 大好きな作品に、新海誠監督の『言の葉の庭』がある。一時間にも満たない長さだけど、アニメーションや物語の良さを味わうには充分足りてしまう。主人公は、靴職人を目指す高校生タカオ。彼は、雨が降った日は一限目の授業をさぼる。そして庭園を訪れて靴のデザインを考えるのだが、とある雨の日、昼間からお酒を飲む女性ユキノに出会う。それからというもの、雨の日のふたりの交流は深まっていく...。

 いったいどこまで説明すればいいのか分からないけど、とてもうつくしい恋愛物語だと思う。ちょうどこの時期、雨がざあざあと降るころにはふと思い出して見返したくなる。個人的には、大好きな声優さん(入野自由さんや花澤香菜さん)が演じられているのも嬉しい。この作品の持つ切なさや恋しさ、日常の中で生まれる強い愛がたまらなく好きだ。

 ユキノは高校で古文を教えていたのだが、とあることをきっかけに学校へ行けなくなり、摂食障害を患ってしまうのだが、その「古文」が物語で大きな役割を果たしてゆく。言葉が二人の愛を深めるきっかけになる、というのがとてもぎゅっと来る。シュリンクの小説『朗読者』でも、主人公の読み聞かせが物語の核になっている。相手の声で発せられた言の葉が、胸の中で募って、だんだんと恋に形を変えていく。それが雨の情景と相まって、ずいぶんきらきらと光って見える。

 ときどき、日本語を話せてよかったと思う瞬間がある。小沢健二さんやスピッツを聴いたり、夏目漱石森見登美彦さんの小説を読んでいるとき。友達と電話をしているとき。涙を「身を知る雨」と表現したり、‘‘I LOVE YOU‘‘を「月がきれい」だと訳してみたり。先人たちの感受性というか、表現の奥深さを知るとき、日本語を理解できる人間でよかったと思う。『言の葉の庭』を観て感じる風景は、この中にある。秦基博さんが歌う「Rain」も最高のタイミングで流れてきて、物語はきれいな晴れ間を見せてくれる。どうして日本の本は上から下へ流れていくんだろう。うん、だからこそ僕は言葉を雨に例えられたのだけど。


秦 基博 / 「言ノ葉」Music Video -Makoto Shinkai / Director's Cut

ひそむ猫、太る犬

 ここ最近雨が続いている。今日洗濯したシャツやタオルも、きっと生乾きのまま使わなきゃいけないんだろうと思うとうんざりする。四国も梅雨入りしたのかな。町を歩いていたらあじさいが綺麗に咲いていて、つい立ち止まってしまった。青白い色のあじさいに、葡萄酒のような鮮やかな色のあじさい。梅雨だからふと目に入ったのかもしれないけど、こういうのは「雨も悪くないな」と思える。

 湿気がすごくて、なんだか熱を持った何かにいつまでも抱きつかれているような感覚がした。冷たい雨が降っているのに、傘の下では汗がじんわり浮かんで滴っていく。道の途中でかたつむりを見つけた。のろのろとコンクリートを舐めるように進んでいく。危ないかなと思って拾おうとしたけど、途中で「寄生虫なんかがいたらいけないなあ」と考えて、そのままさよならした。雨だと、野良猫も見かけない。彼らはどう雨をしのいで、やり過ごしているんだろう。気づかないだけで、梅雨の時期はけっこう過酷なのかもしれない。ちなみに猫が水を嫌うのは、自分で体温調節ができないために体がぐんと冷たくなってしまうからだ、とどこかで聞いたことがある。きっと今頃、軒先にひそんで、雨粒が地面に落ちるのを目で追いかけているんだろう。

 犬は別に大丈夫らしいけど、家族の方々が散歩したがらないだろうから、梅雨の時期はぶくぶく太ってしまうのかな。不思議なことに、一度おなかについた脂肪は簡単には落ちない。散歩している犬をたまに見かけるけど、にやりとしてしまうくらい丸々と仕上がった犬もいて、ああきっと孫をかわいがる祖父母のようなものなんだなと思う。僕の母も、ハムスターにあれこれとあげていたけど、端から見ているとフォアグラを作る工程にも似ていてちょっと可哀そうにも思えるのだけどね。

 春休み明けにはクラスメイトがちょっと成長して見えたように、梅雨明けの景色もずいぶん変わって見えるかもしれない。野良猫は痩せて、犬は太って。そういえば、野良の犬って全然見かけない。その代わりに、僕の住む町では猫がたくさんいる。登校中に一匹、下校時にもう一匹、なんてこともあるくらいだ。最近、マンションの近くをするすると通る猫がいたから追いかけて、しばらくじっと見つめていた。しっぽはどこかで怪我をしたのか、それとも元々そうなのか、まんまるで可愛らしかった。

 しばらく嫌な季節が続きそうだ。「やまない雨はない」と言うけれど、3日連続とかで雨だとそれはほぼ「やまない雨」なんですよね、こっちとしては。だからこそ雨の歌なんか聞きながら、誤魔化してしまうしかないのだ。

ええじゃないか

 好きなバンドや芸能人の写真が見たくてインスタグラムをインストールしたのに、今ではおすすめに出てくる動物の動画が楽しみになっている。特にかわいいなと思うのはハリネズミで、仰向けになってリンゴをサクサク食べているのを見ると自然と気味の悪い笑みを浮かべてしまう。あと特に笑ってしまったのはある猫の動画で、わおーんという犬の鳴き声のあとに「にゃーん」と長く鳴くところは何回見ても飽きないしずっと可愛い。

 猫やハリネズミの動画は、けっこうどれも癒される。ただ食事をしているところでも、お昼寝しているところでも、平均的にちゃんと可愛い。それはなんだか、存在そのものに「いいね!」されているようで羨ましい。ミルク飲んでる、いいね!あっ、起きた、いいね!のような感じで。ただそこにいるってだけですべてを肯定されているようで素敵だと思う。動画に上がっている動物たちが家族の方々に愛されているのが伝わってきて、撮っている側の可愛らしさも感じてしあわせになる。

 自分も小さい頃は「喋った!」とか「立った!」とかでいちいち感動されていたんだろうと思う。アルバムの中に、ポケモンのぬいぐるみと寝ている自分の写真を見つけるとつい微笑む。小さい頃はやっぱり可愛い。今日だって、雨の中を相合傘をして帰る男の子と、その二人を追いかける女の子がとても可愛らしく見えた。いつもイヤホンをして外を歩くんだけど、その音や雨音にも負けないくらい彼らの笑い声が弾んでいて、少しだけ懐かしくなってしまった。

 週末によく友達と通話をするのだけど、自炊をしていることや洗濯を自分でしていることを褒められてうれしくなった。うん、冬なんか特に大変です。指がかじかんで、しばらく感覚がなくなってしまう。だからちょっと億劫になるけど、それで困るのは結局自分だから、しぶしぶやるしかないという...。世の主婦、主夫の方々のしんどさが身に染みるような気分になる。でもこういう地味な作業って「褒めて!褒めて!」と言いにくい。だってごくごく当たり前のことだもの。だからときどき褒められるとすごく嬉しくて、溶けそうになる。

 ただ普通に料理している動画に何百も「いいね!」がついたらすごく面白いと思う。ごくごく普通の日常が「ええじゃないか!」とされたなら、もっとちゃんとしてみようかなと思っちゃいそうだ。ハリネズミがしゃきしゃきとリンゴを食べるのを愛しい目で眺めるように、ただ洗濯したり献立を考えたりする姿にもっと光が当たったらいいのに。だけど、営みを最大限に肯定するのはむつかしい。それでも今日も全国の主婦、主夫は働いている。

勿忘草(わすれなぐさ)

 昔から暗記系のテストが苦手だ。なぜか。すぐに忘れてしまうからだ。漢字も歴史の年号も、さあテストだという段になってぽかんと抜けてゆく。それに、人の名前もすぐに覚えられない。日常会話の中で友達で話していた事柄もあんまり記憶していない。だからときどき「人に興味ない」と思われがちだ。いやあ、そんなことないと思うんだけど...、何か話したことは覚えているけど、重要な中身がぱっとしなくてだんだんまるっきり忘れてしまう。

 この間も文学の歴史に関する小テストがあって、「本居宣長」がまったく書けなかった。あれ、顔は出るのに、名前が...って感じ。その日は結構つらくて、3つの授業でテストが行われたから、その授業まで復習する余裕がなかったのもあるけれど、大学生にもなって「本居宣長」が出なかったのは結構ショックだった。高校生までのテスト週間を思い出すとぞっとした。あと、センター試験が終わるといろいろあっという間に抜けてしまうものだなあ。「鎌倉時代」も「室町時代」も忘れていた。だめだねえ。別に日常に支障をきたすわけじゃないけど、ちょっと前までごくごく当たり前だったことをすっかり忘れてしまうというのは、なんだか情けない。

 その、片隅に押しやられて‘‘かす’’みたいになった記憶を、赤の他人に引っ張り出されることがある。「っ、あっ、そんなことあったね!」と手を叩いて思い出し、そのときの景色がぱあっと広がるような。そして、自分があのとき体験していたことに加えて、当時自分が考えていたことまで思い返すこともある。どうして忘れていたんだろ...とぽかんとしながら、押し入れの奥から出てきたおもちゃを久しぶりに手にするみたいに、しばらく感慨にふける。

 このブログを書いているのも、「このときの僕はこんなことを考えてたんだな...」という昔の自分との出会いを楽しんでいる部分がある。大学という場所はほんとに刺激的な場所で、多種多様な人が同じ場所で授業を受ける。しかもその授業自体が、今までの自分の理解を越えた鮮やかな学びを与えてくれる。そうしたところで揉みくちゃにされていると、自然といろんな考えを抱く。それをつらつらとここで書き記しておくと、ある程度して読み返したとき結構面白いのだ。何か月か前の自分だというのに、なんだか他人の文を読んだかのような気分になる。同じ自分だけど、「なるほど」とうなることもあるし、若さや青さが少しばかり恥ずかしくなることだってある。

 一人暮らしを始めるまえから、ノートやメモ帳にあれこれと書いてきた。でもそのときは、鬱屈した感情が主にそうさせていた。今見るとかなり恥ずかしいけど、そのときの自分も忘れちゃならんなあ、と紙を捲りながら思う。