男子大学生のブログ

UKロックが好きな男子大学生のただのブログ

青春のゆくえ

僕は今大学生で、ずいぶんのびのびしている。毎朝なんとか起きて、朝ご飯を食べて、大学へ向かう。こうした流れも落ち着いてきた。ツイッターなんかで中学生や高校生が「テストめんどくせえ」だとか「受験いやだ」だとかつぶやいてる(もしかしたら叫びなのかもしれないけど)のを見ると、なんだか懐かしさすら感じて、あんなこともあったなと、どこか遠いことのように、思う。

 

僕が中学生の時は、「高校生になるために」勉強しろと先生に言われた。そして高校生になると、こんどは「大学生になるために」勉強しろと言われた。大学生になってみたら、早速就活の話が出た。僕は何度となくその話を聞いて、その度に息苦しさを感じた。僕らは「就活」という終着駅を目指して、わざわざ要らない知識を頭に詰め込んできたのだろうか。どうして彼らは今学べることの意義については口をつぐんでは、一つ先のステップを話をするのか。個人的な話をさせてもらえば、国語の時間での著者についての説明が好きだった。「井上ひさし」の名前を本屋で見る度に、あの先生は「吉里吉里人」を読み終えるのにすごい時間がかかったと言ってたなとか、三島由紀夫は無駄な文章がなくてすごく凝っているんだったなとか、今でもすごくよみがえる。大したことではない。大したことではないけれど、僕の中で繊細に生きている。

 

将来、受験科目以外の体育や音楽、書道なんかは軽んじられていくんだろうけど、きっと子どもたちは宙ぶらりんなままで勉強するのかな。とっても不思議な未来だ。

 

関係ないかもしれないが、学びには「生産性」が付きまとう。たぶん文系はこれが低いけれど、面と向かって「お前たちは生産性ないんだよ!」と言われると「いやいやいや...」と反抗心が芽生える。「だいたい生産性なんてね...」と口を尖らせて説教したくなる。「文系と理系に分ける自体おかしい」という人もいるけど、僕は「文系と理系それぞれの役割をきちんと遂げるほうがいい」と考えている。なんとなく。

ひとり暮らし

一人暮らしで得たものは、今のところ家事の能力ぐらいだろう。

 

僕は、いつもひとりだと思ってた。家に帰ると、僕は一人っ子だから特に話す相手はいない。家族にだって言えないことはあるし、それ以上にお互い忙しいのだ。

すごく厄介だなあと思うのは、友達と喋っているときもその「ひとり」の気持ちが起こることだ。漢字に変換するなら、「独り」、だろうか。うまく伝えられないけれど、ずっと壁越しに話しているような、そんな感じ。そして彼らは壁の向こうで違うものを共有している。ときどき僕はその向こう側が見たくなるけど、いけないんだとどこかで思っていた。僕のことをわかっている人はいないんだろう、でも別に嫌ではないな...と、考えてた。

 

だから、だからこそ、僕のことをダーツの的の真ん中を射抜くみたいに言い当てられると、惑ってしまう。一度だけあった。そのときは夜で、親も寝静まってた。僕はラインをしていて、そんな折に「友達が僕のことをどうとらえているか」を教えてくれて、唐突に涙が出た。強がってるけど、ほんとうは弱い、か。弱い部分を見せたことがあっただろうかと考えて、きっとそういうことではないんだろうと思った。僕はその友達と話しているときは、空っぽでいられた。それはすごく嬉しくて、不思議なことだった。

壁の前で嫉んだりうつむいている自分は、まだ死んでいない。その友達が僕の前を行っている気がしてならないけど、それはそれでいいのだ。その分強くなろうと、あいつみたいになろうと思えるから。

 

文章を書くときには事前にプロットを決めたほうがいいと、先生に言われたことがあるけど、いまだに苦手だ。結局文章がよくわからない方向に行ってしまう。でも言いたいことは、「自分をわかってくれる友」が一人いることで、全てどうでもいいというか、自分がどう見えているか心配になって無理して着飾る必要はないと思えたということだ。

ジュテーム...!?

ハチミツとクローバー」を見ていると、いつもは素通りしていたような音楽が耳に残って、こんなにシンプルなのになんでだろうと思って、気が付いたら曲名を調べていた。

 

その曲は「ジュテーム?」という曲だった。静かで小さな部屋の中で歌っているみたいに聞こえる。多分この今日は、ほかの曲と同じようにマサムネさんの声じゃなかったらこんな聴こえ方をしなかっただろうと、思う。

 

最初は「ジュテーム?」、そして「ジュテーム...」、最後は「ジュテーム!」。だんだん確信に近づいて行ってる感じ。多分はじめは、こんな恋をしてていいのかと悩んでいたんだろうなあ(あくまでも予想!)。ジュテームという愛の言葉が彼(あるいは彼女)の気持ちの整合性を高めたというか、「好き」の気持ちを確かなものにしたというか...。

 

きっと、あくまでも「きっと」でしかないけれど、この歌の恋人たちはお互いに傷つけあって、迷惑をかけあって、でも一緒にいるとすごく落ち着いて、生きている感覚を抱いては落ち着いている。すごく複雑だけど、一緒にいることに「罪悪感」とそれ以上の「安らぎ」を覚えている(はず)。

 

ハチクロの登場人物たちも、一緒にいて楽しいはずなのにどこか切なさや「届かない思い」を抱いてる。この「ジュテーム?」は、山田が真山を思ってるときに流れてくる。真山とは近いところにいるけれど、彼の心は違うところにある(確かそうだ...)。そういう直線的じゃない関係は、見ていて切なくなるし、この曲は尚更そうさせる。

きっと彼女の「ジュテーム?」は、違う方向へ向かっていたのかもしれないけれど。

 

誰かとスピッツを聴きたい日が必ずあるものだ

心地よい風が吹いている。6月に入って、曇りと晴れが交互に来ていて、今日は爽やかな青色が広がっている。

昨日の夜に「ハチミツとクローバー」が見たくなって、Youtubeで色々漁っていた。ある回で流れたスピッツの「多摩川」がやけに切なかったな。そういえばこの漫画のタイトルになってた「ハチミツ」ってどんな曲だったっけと、これまたYoutubeで聞いてみた。あれ、こんなによかったかな、びっくりした。すごくキャッチーだし、ほんの少し寂しくなるし。

スピッツ、或いはマサムネさんのすごさは、誰にも作れそうだけど作れないメロディを作れるところ、そして曲を聴くと「スピッツだ」と分かってしまうところ。スピッツの歌の中には、必ずどんな人にも当てはまるイメージがあって、その中でみんな恋をしたり自転車で走ったり、或いはうめぼしを食べたくなるんだ。

甘くスイートな日も、どしゃ降りの日も、スピッツの歌はやさしく寄り添う。時には、ひとりにしてくれる。多分彼らはかっこつけたりしていない。等身大で、だけど届かない。きちんとした悲しみに立って、いつもの日々を歌ってくれる。

ノエルギャラガーはロックスターじゃない

みなさんはもうリアムの新曲を聴いたのだろうか。とてもよかった。リアム!って感じがした。

先日Radio Xに出演したノエルのある言葉がとても印象深く記憶されている。
おれはロックスターじゃないよ、ロックスターはリアムだ。言ってることわかるよな?

これは単純な賛辞なのか、はたまた何か皮肉なのか、あんまりよくわからなかったけれど、自分のことをロックスターとは思ってないようだ。

ノエルのソロアルバムには、必ず一曲はオアシスの曲にありそうなロックンロールなものがある(これはオアシス時代に書いた曲を解散後に録音しているからかもしれないが)。Lock All The Doorsあたりが顕著かもしれない。
それでも自分のことをロックスターと思わないのは、何故なのだろう。

僕は、今のノエルが沢山の音に挑戦したいからこういうことを言ったのかもしれない、と予想した。オアシス時代のノエルは「オアシスの音」を意識しながら曲を書いてきたかもしれない。「Dig Out Your Soul」の頃は少しアヴァンギャルドに、「こういう音もオアシスのスタンダードになれば…」と考えながら作っていったのかもしれない。いずれにしても、「オアシス」は強く音を支配していた。

しかしオアシスが解散して、ノエルはバンドでは無くなった。一方リアムは残ったメンバーとビーディーアイというバンドを結成した。ビーディーアイは「オアシス後」というか、オアシスを引き継いだようなロックンロールな曲を発表していった。きっとノエルは楽になったんだと思う。「オアシス」という呪縛が無くなり、オアシスの曲としては発表しなかった曲も作れるようになった。だからデヴィッドボウイのような曲も、ニールヤングのような曲も書けた。ロックスターとは言えなくなったけれど、だ。

今年出るサードも、きっと一曲は新しい挑戦をしているかもしれない。そうだ、ノエルは挑戦できるようになったんだ。オアシスのときだったら「あの曲のほうが…」と言われていたことが、できるようになったのだ。ロックスターでいることより、アーティスト、またはミュージシャンでいることのほうがよっぽど気楽で今のノエルに合っているのかもしれない。今はただ、ノエルの新しい音像を待つのみだ。

panpanyaさんの『蟹に誘われて』を読んで

本屋にいるときが一番楽しいかもしれない。知らない本、知ってたけど読んだことなかった本、たくさんの出会いがある。「あそこの本屋に無かったけどここにはあった」という発見さえ与えてくれる。

五月のとある日、漫画が読みたくなって本屋へ入ってみた。そこは金高堂という所で、かなり落ち着いた雰囲気だった(本屋はだいたい落ち着いてるか…)。

まずはタイトルが目に入ってきた。「蟹に誘われて」。なんとも素敵なタイトルではないか。そこでググってみると、あんまり蟹は関係ないっぽいことがわかった。
しかし僕は買った。短い話が一冊にまとまってるのがいいなあと思った。僕は飽きっぽいからシリーズものだと途中で買うのをやめてしまうのだ。

読んでいて感じたのは、なんとも奇怪な話が多いなあということだ。しかし、丸っきり変というわけではなく、日常のどこか少しがおかしい、という感じ。そっちのほうがより奇怪さが際立っているというか、より不気味に思えるのかもしれない。他の作家さんで例えるのは失礼なのかもしれないけれど、つげ義春のような雰囲気と、あらゐけいいち赤塚不二夫のようなラディカルさがある気がした。他にも何冊か発売されているようだから、読んでみたいと思った。

「ともだち」#とは

友達を作るのが苦手だ。世に言う「コミュニケーション能力」とやらが足りてないのだと思う。話しかけるのがすごく恥ずかしくて、結局受け身のままになってしまう

大学生になり振り返ると、小中高までの「クラス」という集団はとても不可思議なものだった。「クラスに顔見知りは何人いるか」「クラスでどう立ち回りすればよいか」「クラスであの子とあの子が仲悪いのか…」などと、気にしなくてもいいことも気にしてしまうし、クラスに話す子がいないと、まるで世の中の誰も自分に関心がないかのような孤独感も覚える。クラスはたいそう窮屈なものだった。

僕はたまたま運が良くて、僕なんかに接してくれる人が何人もいた。それは本当に有難いことだと思う。たぶん世の中には、誰にも「自分」という存在を知られないまま、苦しんでいる人がいるはずだ。独りでいることがつらくて悩んでいる人がいるんだろう (ここで大切なのは「必ずしも全員が独りを嫌に思うわけではない」ということ)。

「友達」って一体なんだろう。顔見知りと友達の境界線は、そして友達と親友の境界線は、一体どこにあるんだろう。僕はきっと友達の数が少ないのだろうが、友達は「数」なのだろうか。友達100人作る必要はあるのだろうか。それなのに、友達が多い人を見ていると友達が少ない自分がかわいそうに思えてくるのは何故だろうか。

僕には時々連絡を取りあう友達がいる。向こうには向こうの世界があり、こちらにはこちらの世界がある。その世界の近況を聞くのはとても楽しい。こっちの世界にあんまり変化はないけれど、何かあったら、どうでもいいことでも、そいつに言ってみたいのだ。