NIGHT SCRAPS

夜をつらつら書き連ねるブログ

ミドル

 一週間ぐらい前に、地元の映画館で『グリーン・ブック』を観た。夕方近くの上映だった。座席を埋める人の数は多くはなかったけれど、笑い声が近くから聞こえてきたり思い出深い二時間になった。劇場を出たあとの宵闇の中でも、僕は映画のことをぶつぶつ考えながら歩いた。電車に揺られ、さみしい道を抜け、家に帰った後も。そして今でも思い出す。

 話は逸れるけれど、真ん中を歩くことはときどき困難を伴う。そのことを表す例えで「真ん中に立っていたら左右から来たどちらの車にもはねられちゃうよ」、というのがある。『グリーン・ブック』を観ていて考えたのはそういうことだった。どちらでもない人の苦しさ。どちらでもない人の不安。この物語は黒人ピアニストであるドクター・シャーリーと彼の用心棒係の白人、トニー・リップのお話なのだけど、シャーリーが自分が押し込めていた感情を爆発させて涙を流すシーンがあって、とても胸に迫る。

 右に行けば「左側の人でしょう」と言われ、左に行けば「右に行かないの?」とからかわれる。北風にも太陽にもなれないにわか雨。海水と淡水まじり合う汽水域。話が通じるんだか通じないんだかよく分からん曖昧さ。中間(ミドル)にいるっていることは、程度の差こそあれこのもどかしさを含んでいる。

 それでも最後には、ドクター・シャーリーはトニーの家族とともに温かいクリスマスを過ごす。彼のままで。いや、この結末は、シャーリーや彼の周りの人々によって生まれたものであって、誰もが掴めるハッピーエンドじゃないんだけどね。僕もシャーリーのような立場になることがあれば、隣の誰かがシャーリーになっていることがある。気軽に口にした言葉が、棘になっているかもしれない。そのときはしっかりと、ごめんなさいの気持ちで棘を抜き取らなきゃいけない。僕にはできるだろうか。ついムキになって、引き返せないぐらい遠くに行ってしまわないだろうか。

 今日は一日、空が雲ばかりで隙間がなかった。今はしとしとと雨音が聞こえる。予報通りなら明日の朝には晴れるだろう。曇りの日は傘を持っていいのか分からないし洗濯物も乾くのか心配になるけど、それが曇りなんだからしょうがないよね。

The Lonesome Road

The Lonesome Road

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朝と抱擁

 桜の開花が発表された日。久しぶりに温かなやさしさに包まれた日。古着屋さんでよさげな半袖シャツを見つけて、安かったけれどそれだけを買った。部屋に帰って来て着替えてみて、「うーん、いいなあ」と思ってまた脱いだ。スーパーで買った食材を冷蔵庫に詰め、厚揚げとこんにゃくの煮物を作った(一日しゅませるとかなりおいしいのだ)。時計を見るとまだ三時だった。いい天気だからと、僕は本屋さんに行ってサリンジャーの『フラニーとズーイ』を購入した。どこかからどこかへと移動するのはやっぱり嬉しいと思った。

 でもその日の夜は(''夜も''かもしれない)全然眠れずに、嫌なことばかりぐるぐると考えてしまった。普段は昼の光に守られてぼやけた景色が、夜の乱暴さではっきりと映るように、いろんな不安が途端に現れた。はあ、やだなあと思いつつ目を見開いていた。その不安の多くは将来仕事に就かなければならないことについてだった。誰か哲学者が言っていたけれど、仕事はきっとその人の人格にも影響を及ぼすだろう。サラリーマンはサラリーマンらしい人間になり、農家は農家らしい人間になる。たぶん。

 そんな風にうだうだ考えて、いつの間にか子供のように丸まって眠っていた。お昼ごろ目覚めて、一日ずっとムーミンの動画を見ていた。洗濯物を取り込んで、ときどきスナックを頬張り、優しい物語を見続けた。どの話もたっぷりの栄養と教訓に満ちている。ニンニの話は特に涙があふれた。ぜひ観て欲しいな。ムーミン谷のキャラクターはみんなクセがあるんだけど愛があって憎めない。村で起こるさまざまな出来事が彼らの愛によって解決されていくのが、本当に素晴らしい。磨きたての清らかな朝の輝きが、どんな闇も力強く抱き上げるように。

 明日はトーベ・ヤンソンの原作を買おうか...。いい天気だといいな。早く半袖で外に出て遊びたい。

Eat At Home

Eat At Home

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ぽこぽこと、思考する(15)

・休みの日に限って、何かしないといけないような気がしてくる。空っぽの頭にどんどんと液体が流れ込んでくるみたいに、変な義務感が支配する。いやだ。かと言ってむつかしい本を広げてみても、頭がスカスカなのだから入るものがない。ただぼんやりとゲームをしていたら、もう夕ご飯を食べる時間になっている。

・いつものように夜更かしして、もう限界だというタイミングで眠りに落ちる。スマホの目覚ましで設定していた時刻よりも早くに目覚めてしまって、あと少しと枕に沈む。そうすると起きるのは三時間後、正午近くだったりするのだ。生きている心地があんまりしてこない。車が濡れた車道を走る音がする。予報通り、雨らしい。カーテンを開けるのも億劫ではっきりは分からないけど。今日は祝日だから図書館も閉まっている。ベッドで過ごす春の日。猫みたいに身体を伸ばして欠伸してみる。彼らのようにのほほんと。

・そろそろとベッドから立ち上がり、カーテンをさっと開くと控えめな青空が顔を出している。洗濯するためにベランダに出ると、人肌ぐらいの温い風に乗って、雨上がりの匂いが伝わってきた。「何にもしないのもなあ」というきもちが途端によぎり、髪を洗って服を着替え、湿気の多い町を歩いた。久しぶりにポール・マッカートニーを聴きながら歩いた。のんびりとした空気が妙に苦しい。そろそろ桜の花が開く頃だろうか。ただぼうっと歩いていたから、お腹が空くばかりで、他には何もなかった。こんな風にして一日一日過ごしている。だあ。

まぶしがりや

 ずっと読みかけだった本をやっと読み終えた。カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』だ。1946年の小説を村上春樹さんが新訳したもので、カバー写真にはマッカラーズ自身の姿が写っている。物語は「緑色をした気の触れた夏のできごと」で、十二歳の少女フランキーがその主人公だ。彼女は、兄の結婚式で人生が変わることを夢見ている。新婦新郎とともにどこかの土地へ流れていきたいと思っている。どうしてそこまで結婚式に拘るのか疑問に思うほど、彼女はそれに執着し、ときどき無茶をやらかす。

 途中、女料理人のベレニスに対して、何かを伝えたいのだけど全然違うことを口にしてしまう場面があって、そのもどかしさが巧みだなあと感じた。とにかく、フランキー(またの名をF・ジャスミン)の心情の機微がふわりと表れている。飴色の空想の世界、どこか知らぬ場所への憧憬、無鉄砲でなりふり構わず突っ走る姿。光が道路で跳ねて、瞳を夜空の星にする。

 そんな彼女も、十三歳になって変わっていく。従弟である六歳のジョン・ヘンリーが亡くなってしまって、彼の存在も風のように溶けてしまって、辺りの景色が灰色に暮れていく。ありきたりな幸せで笑顔を見せる少女。落ち着いたフランキーの仕草は成長だと思う一方、どこか切ない。読者はそうして本を閉じる。しかし、またしばらくしてページを捲り始める。あの頃のフランキーに出会うために。

 誰もがきっと十二歳という季節を通り過ぎて、だんだんと社会性を帯びていく。尖った部分も削られて、大きな集団にまとめられてしまう。社会からはみ出た部分がいつの間にか「羞恥」なものとして記憶される。そしてふっと、世界から色が抜けていくのだ。

 ペシミズムはこれぐらいにして、『結婚式のメンバー』は描写が美しい作品だと思った。そして繊細だ。フランキーが兵隊の男と二人きりになるシーンがあるのだけど、彼の態度に隠された得体のしれない欲望が、やたら気味悪く感じられる。そう、欲望の対象として見られていることの気味悪さ、というか。この物語を読んでいる間は、あらゆることに盲目で、しかしながらきらきら眩しい少女になりかわっている。その子はまだ夜を知らず、齢を取ることも知らない。何か魔法めいたものに守られたときに住んでいるのだ。それはもう、僕の住めない場所だ。

結婚式のメンバー (新潮文庫)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

ルーザー

 高校に入学したとき、まさか部活に入らなくちゃいけないとは思っていなかった。しぶしぶ僕は囲碁将棋部に入部した。部室には僕のような眼鏡男が数人いた。はたして、僕が部活に参加したのは合わせて何回だろうか。大会にも参加したけど、仮病を装って途中帰宅した。どうしてここまで部活に熱中できなかったのか、今では疑問だ。

 二年生になったが、継続届は出さなかった。事実上僕は「帰宅部」になった。放課後、僕を呼び止める声があった。外見は、ナマズに似ている。『ちびまる子ちゃん』だったら永沢君のようなキャラクターだろう。彼は射撃部に属していたが、僕みたく「帰宅部」になり下がった男である。僕と彼はまあまあの日々を一緒に帰った。ほんの短い距離だ。大した会話をした覚えもないし、ほとんどが憎悪と偏見に満ちていた。なかなかクラスの中では吐き出せない真っ黒な感情を話しても彼は大笑いしてくれたのだ。

 彼といることによって、心のどこかで優越感を感じていた。もちろん彼と話していると素直に楽しい。でも、テストの点数を比べたときに自分の方が少しだけ優れているから、高い位置にいる気分を味わっていた。もしかしたら、見た目だって自分の方が多少ましかもしれない。なんてことを、彼の隣で自転車を漕ぎながら思っていた。狭いクラスの中で擦り減った心。彼との会話の中でそれを補おうとしていたのか。

 成人式で久しぶりに彼と会った。何も変わらず、そいつはそいつのままだった。僕は彼のスーツ姿を笑い、向こうは僕の髪形をからかった。僕に話しかけてくれる人もいたけれど、どのグループの会話にもうまく入れず、誰とも連絡先を交換せずだった。一方彼の方は、いろんな人に声をかけられ、からかわれ、言葉を交わしていた。彼には親しみがあふれていた。人を惹きつける力が。

 僕は一人で水をぐびぐび飲みながら「いつも通りだ」と思った。僕は一人で、向こうは人だかり。中学のときを思い出す。友達と遊びに行く約束になって、なぜか電話をすることがあった。日時のことなんかでやりとりするためだろうか。僕はそわそわしていた。何回もかけようとしてはやめた。勇気を出して電話をかけた先では、何人かの男の声がした。さっきまでの落ち着きのない自分が途端に恥ずかしくなった。

 何のために勉強してきたんだ。そして今もしているんだ。どうしてお前は一人なんだ。僕はずっと誰かに憧れている。

藤沢ルーザー

藤沢ルーザー

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ポップ・ウイルス

 そこには確かに星野源がいた。表情も判別できないぐらい遠い場所からだったけど、「目が合った!」なんて幻想も抱けないぐらいの場所からだったけど、確かに星野源は存在していた。最高の夜だった。

 三月十日の博多は、天気予報通り雨だった。乗り物酔いで気持ち悪くなった僕は、知らない街に右往左往していた。ヤフオクドーム行きのバスに乗り、窓際の席に座っていると、道路を埋めるようにたくさんの女性が歩いているのに気がついた。似たような服を着て同じ方向に向かう彼女たちは、どこか兵隊のような趣があった。バスが停留所に止まり、女性たちがどんどん乗り込む。次第に酸素量が薄くなり、温度や湿度が高まった。苦しい...。

 ヤフオクドーム近くで降りると、とんでもない人の数が目に入った。まるでゲリラだ。看板の前では写真撮影をする人が、グッズ前には長蛇の列が。人に揉まれ揉まれ、雨粒に当たりながらなんとか入場できた。それでもやっぱり人の多さ。自由を束縛され、隙間を縫うのも一苦労だ。f:id:r46abfcfd77x7mE05SE181:20190312152229j:image

 開演は午後五時だった。暗転し、人々が立ち上がる。歓声が上がるので辺りを見回すと、会場の中央辺りでギターを弾く源さんの姿が。ざわめきもすぐに止んで、その歌声に耳をすました。僕はモニターに映る姿と、フィギュアぐらい小さい姿を交互に見ながら、手を叩いたり振ったりした。『POP VIRUS』の曲たちが、バンド編成によって迫力が増し、ド派手になっていた。かっこいい...。これぞライブの醍醐味なんだろう。

 前回観に行った''Continues''ツアーでも思ったことだけど、みんなそれぞれの身体の揺らし方や踊り方があって、普段もこうやって音楽を楽しんでいるんだろうなと嬉しくなった。まさに音楽の感染。一人の人間から生まれた音楽が、バンドメンバーや200人以上のスタッフ、ELEVENPLAYの方々などによって形をなし、三万五千人(子供からお年寄りまで)へと波及していく。温かくて、「ヤバい」ウイルス。

 腰はバキバキ、足はプルプルしたし、手もジンジンと痛かったけど、至福だった。一瞬一瞬過ぎゆく時間があまりに切なくて、言葉にできないぐらい素敵だった。「恋」の高揚感、「Present」のカタルシス、「肌」のスケベさ、「プリン」のくだらなさ、源さんの今のすべてが詰まっていて、それがどれもみんなの心を温めていた。自分のことではないのに、これだけのライブが出来上がっていることへの喜びで、涙が流れそうになった。また会いたいな。できるならキャパの小さい会場で、こじんまりと(人の多さに疲れちゃった)。


星野源 - 恋【MV & Trailer】/ Gen Hoshino - Koi


星野源 - アイデア【Music Video】/ Gen Hoshino - IDEA

Half of the Way (feat. Theo Katzman)

Half of the Way (feat. Theo Katzman)

  • Vulfpeck
  • ファンク
  • ¥250
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※開演前に流れていた音楽でかっこよかったやつ。

花と棘

 低気圧が過ぎ去って、温かい天気が来た。冷たい風の中で重ねられた温い手のような、やさしい天気だ。川面に光が跳ね、うっすらと赤らんだ梅の花がふわりと揺れた。古着屋に寄ったりハーフコートをクリーニングに出したり、またいつものように買い物をした。自転車であちこち行くのが久しぶりだったから、ほのかに疲れてしまった。

 近所の八百屋さんが病気を理由にしばらく休んでいる。よく行く喫茶店の店主も旅に出かけてしまった。また違う喫茶店も久しく開いていない。なんだか町の一部がぽっかりと欠けてしまって、元気を失ったみたいだ。多くの学生が故郷へ帰った今では、ときどきシンと静まり返るときがある。信号待ちも一人、くしゃみするも一人。

 引っ越しの準備や新入生の姿を見ると、新しい季節を感じる。「新しい季節は なぜか切ない日々で...」。春の麻薬的な空気の中に、ナイフは潜み隠れている。望んでいた未来の姿をずたずたに破き、人と人の間を繋いでいた糸という糸を無残に切り刻もうとも、ナイフは君の温かな血を狙っている。五月にはもう腐ってしまうかもしれない。逆に、ナイフが数々の不安を日差しの外へ追いやって、代わりに沢山の仲間を連れて来ることだってある。彼らはどちらなんだろうと、すれ違うたびに思う。

 大学になんとか慣れてきたこの頃でも、もうすぐに「卒業」や「シューカツ」が訪れて、新しい環境に右往左往するんだろう。やだなあ。終えるために始まって、始まるために終える。ずうっとその繰り返しだ。季節が渦を巻き、枯れた枝に頬を染めた花が咲き始めるように。

 フリッパーズ・ギターを久しぶりに聴いて、見慣れない街を頼りなく歩いていた頃を思い出した。「さようならパステルズ・バッジ」が流れてくると、風景やそのときの空気まで一緒に浮かび上がる。ナイフで傷ついた痕がヒリヒリ傷んでいるのかもしれない。ナイフでいろいろと引き裂かれてしまった。でもやっぱり、一人っきりで知らない町に住んでいるんだという感覚は力強く、孤独を誤魔化すために覚えたいろんなことは、今にも繋がっている。よく分からず読んだ岡崎京子も、春風のなか口ずさんだ小沢健二も。